空に、朧に浮かぶ月は、まるで濁った水に映し出される光のよう。
青年は、小さく履いていたゲタをカラン、コロン、と鳴らしながら脚を進める。
聞こえるのはただそれだけ。
虫の音さえ、人の声さえ、ましてや傍で青年の様子を伺っている伊吹の羽音は聞こえず、ただただカラン、コロン、とゲタの音が鳴り響く。
カラン、コロン
カラン、コロン
カラ…
コツ。という音と共に少年の動きが止まる。
そして。

「もうし…」

声がした。

「もうし…」

青年に向けられていた声は段々と近くなる。

「…もうし。」

「…なに用だ?」

「もうし。」

「言ってみろ。」

青年は、声に向かって言葉を放った。
その言葉は、水の波紋のように周りへと薄っすら溶けていく。
静まり返った場所へ、青年の言葉が染み渡る。
すると、声は止まった。
そして、薄っすらと女の脚が見えた。

「このような処へ…何故、お独りなのでしょう。」

声は女のモノであるかのように聞こえる。
しかし、女の脚は喋っておらず、女の顔はまったく見えない状況だった。
それでも青年は何も知らぬ振りをして声に答える。

「探し物を」

「どのような?」

「忘れたものを」

「どのような?」

「失ったものを」


「どのような?」



「形にはならぬものを」



青年は女の顔を見つめた。
いや、正直にいうと、顔を見つめてはいなかった。
ただ、女の顔があるであろう場所を見つめていた。
そうすると薄っすらと見えてくる女の顔。
《意識を…》
伊吹が呟いた。
そう、もっと意識を。
もっと意識を高め、集中すると見えてくる。
ほら、脚だけの女が、薄い桃色の着物、薄紅い帯、首、そして真っ赤な…顔。

「嫌いじゃ」
「嫌いじゃ」
「嫌いじゃ」

「…そのようなものはこの世に無い。だから嫌いじゃ」

女はうめく様な低い声で言った。
確かに、女から発せられた声。
それでも、その声は低いもので――。

「アナタを助けよう」

青年は口に出す。
女の顔を見て。
鬼のお面を被り、その下にある頬を涙で濡らしている女の顔を見て。

「助けよう。」

もう一度、口にした。

「嫌いじゃ」
「嫌いじゃ、そのような不確かなもの」
「嫌いじゃ」

女は首を振る。
嫌い。と言いながら首を振る。
どれぐらいか、どれぐらいうめく低い声を発していたのか。
喉が枯れ、声が出なくなると同時に鬼の形相をした面が床へ落ち、そして泥の中へ沈んでいくよう地に落ちていった。

「もう、嫌なのです…」

女の声は、うめく低い声とは違い、凛と高く、うんと澄んだ声をしていた。
そして女は倒れるように体勢を崩し、その場に座り込んだ。
女のその両頬には流しても流しきれぬような涙の後があった。





NEXT→

[TOPへ]
[カスタマイズ]




©フォレストページ