長編夢
□2
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2月下旬 夕方
「あなた、なかなかのできですね」
「…」
「私みたいなか弱い女の子に刃物を向ける度胸もありますし」
「…」
姫香は学校帰りに赤く染まった目をしている男に刺されかけた。人通りの少ない路地に入ったとたん、これだ。辻斬りが横行している中一人で歩くのは危険だと臨也に散々注意をされていたが、まさか自分が襲われるとは思ってもみなかった。まるで物語に関わっていいよ、と誘われているようだ。
「相手が悪かったですね。私は確かに弱いですがそこらへんの女子高生とは少し違いますよ?」
袖から小柄のナイフを取り出して構えた。臨也とセルティに教わった護身術だ。
「敵意には敵意、殺意には殺意。ハンムラビ法典より!」
相手が一歩踏み出したのを合図に、斬り合いが始まった。振り回された包丁をすれすれでかわしながら背後に回る。
「私、別に格闘家ってわけじゃないんですけどっ。こわっ!」
そう言ってはいながらも、軽快なステップを踏みながら攻撃をかわし、相手の左足にナイフを突き立てた。血がぶわっと噴き出てくるが姫香は落ち着きを保っている。血だの痣などはもうすっかり見慣れてしまったのだ。
「動脈は外しといたので、死にはしませんよ。気絶したら手当てしてあげてもいいんですけど。って、うわっ」
男はナイフが刺さったままの状態で飛び上がり、姫香の首に包丁を突き刺そうとしたのだ。間一髪で避け、犠牲となったのは地面に散らばる髪の毛だけだった。
「うわぁ、左側だけ短くなっちゃった。後で美容院に行かなきゃね。まあ、自分で少し整えてからの方がいいか」
すでに重傷を負っているはずの男だが、まだ動くらしい。身の安全の確保の為、姫香はいつの間にか取り出したもう一つのナイフを男の右腕に突き刺した。男はうめきながら包丁を落とし、それを足や腕から血を噴出させながら必死に拾おうとした。喧嘩に関しては完全に素人のようだ。姫香はその隙に男の首筋に、ローファーの踵を使って勢いよく蹴りをいれた。そして男はようやく気絶した。
「あ〜、怖かった。罪歌君臨ってとこ?ちなみにハンムラビ法典は身分によって刑罰が違うんですよ。聞いてないか。今手当てしますからね」
念のため闇医者にも電話をしておいた。
「後で新羅に診てもらえますよ。襲ったのが私で良かったですね」
それからは黙々と手当てを続けた。どんな理由であれ、自分が怪我をさせた相手を放置することだけは絶対にしてはいけないと思っている。裏の世界から抜け出せなくなってしまった姫香の、最後の良識だ。いくら現実世界を離れているとはいえ、ここで放置してしまったら元の人間性が壊れてしまうような気がした。
――かっこつけてる…って言うのかな?結局は干渉したくないってだけなのかもしれない。
手には血がべっとりとこびりついてしまった。シャツにも返り血がついている。真面目に制服を着こなさないでパーカーを羽織っていたからよかったものの、もしブレザーを着ていたら洗うのが面倒だっただろう。
――誰かを守る勇気も力もないくせに、自分のことだけはしっかり考えてるんだから。私ってホントに情けないな。
薄汚れた路地の真ん中で、自分自身を嘲笑った。