アイリス

□五章 威圧
1ページ/3ページ




どれだけ頑張っても報われない。
そんなことは、もうとっくに解っていた。

だけど俺は、手を伸ばした。

貴方の笑顔が見たくて。









「ルーク?ルーク!!」

朝の小鳥が囀る頃合い、ラインダース低にラインダース侯爵婦人の呼び声が響く。
いつもと変わらない日常。

「いないのね、あの子ったら…」

侯爵婦人は、一通り屋敷内を探していたが息子の姿は見つからない。

行き先は知っていた。

だから尚、心配だったのだ。

己の息子は休みの日でも毎日、レベイユの街の図書館に出掛けている。

国内屈指のラトヴィッジ校の入学試験に受かるために。

彼は、朝から晩まで勉強。

そんな息子を喜ぶ反面、母は心配もしていたのだ。


「ルーク…」

ラインダース低に、孤独な母の声だけが響いた。









「ルーク様!!」

レベイユ最大の図書館の一室に、慌てた男の大声が広がる。

途端にそこにいた人が一斉に顔をあげ、何事かと眉をひそめた。

ルークもそのうちの一人。

「…何だよ、此処は図書館だぞ」

ルークは読んでいた本と参考書をパタ、と閉じて、掛けていた眼鏡をはずし、男を見上げた。

そんな彼の動作に苛々したのか、男は更に声を荒らげ、ルークに告ぐ。

「たった今!ラインダース侯爵婦人が何者かによって殺されました!!」

その言葉にその場の全員が鎮まる。

"ラインダース侯爵家"婦人が、何者かによって"殺され"た。

「…!?」

その言葉に一番衝撃を覚えたのは、殺された婦人の息子、ルーク=ラインダースであっただろう。







俺は貴方に笑顔になってもらいたくて。

「母さん!?母さん!?」

女癖の悪い最低な親父のためにいつも一人で震わせていた小さな背中を見て

「母さ―…」

せめて俺がラトヴィッジ校に入学して、良い成績をとって見せてあげたいと

俺が幼き頃見た、貴方のやわらかな笑顔を取り戻してほしいと

「かあ…さん…?」

強く願った。

「―母さん!!」

それだけなのに。

「…な、なんで…どうして血まみれなんだよ…どうして目を開けないんだよ…」

貴方とただ生きて、ただ笑い合って悲しい時は涙を分かち合う。

「…んで…なんで…っ」

そんな普通で平凡な毎日を

「…なんでっ母さんなんだよ!!!!」

ただ生きたい。

それだけだったのに。

朝まで穏やかに笑って振ってくれていた手が、今はこんなにも冷たい。

頑張ったね、
と頭を撫でてくれた貴方の笑顔が
大丈夫よ、
と言った強く美しい貴方の横顔が
いってらっしゃい、
と言って送り出してくれた貴方が

何度も何度も俺を呼んでいる

その度に俺は手を伸ばすのに
美しい幻影は儚く歪み消え失せて

また目を開ければ残酷な現実だけが
目の前に広がる

何故気づけなかった?
俺が―…
馬鹿みたいに勉強していたから?
貴方の傍にいなかったから?

「…ごめん母さん…ごめん…」

気づけば貴方はもういなかった。
最後に見た笑顔だけが頭の中を駆け巡る。

「…傍にいてやれなくて…ごめん…」

貴方が苦しい時に傍にいてやれなかった。

いつも無茶ばかりして迷惑かける俺にも
貴方は笑顔で

「…守れなくて…っごめん…っ」

貴方を守れなかった。

貴方の幸せを誰より願っていたのに、守れなくては意味が無い

貴方の望むものは何だったのか
本当に貴方は、貴方から離れて勉強をする俺を望んでいたのか

貴方の望むことを何一つ叶えられなかった俺にはそんなこと、解らないが

貴方のいない今
つのる思いは、後悔の念ばかり

「…これから、だったんだよ…」

これから、迷惑ばっかかけた馬鹿息子な俺が母さんを幸せにするんだったんだ

何もかも、これからだったんだよ

母さん、聞こえますか?

「…っ母さん…っ!!」

母さん

貴方から離れた愚かな俺を

どうか許してください。

貴方を守れなかった馬鹿な息子を

どうか許してください。

―いえ、許さなくて良いです。

許さなくて良いから

「…ごめん…ごめん…っ」

許さなくて良いから―

どうか

「…母さん…っ…目を…覚まして…また笑ってよ…」

どうか

目を覚まして

また

あの日のように

「母さん…っ!!」

笑ってください―


―母さん…





「おい、どうしたラインダース」

ハッと気がつくと、エリオットが顔の前で手を振っていた。

確かにさっきまではこいつと話していたのに、急に記憶が混乱している。

暫くしてやっと思考力を取り戻した俺は、答えにたどり着いた。

「あ…いや、何でもない…」

そう言ってもまだ怪訝そうな顔をしているエリオットにへらっと笑いかける。もう慣れすぎた笑いかた。

「…そうか」

エリオットはあまり納得しないような顔をしていたが、すぐに先を進んで一人で歩いていった。
次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ