薄桜鬼短編

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それから俺は会社帰りによくその店に寄るようになった。

2度目にそこに行った時金曜日は居るという言葉通りそこにいたこの前のバーテンダーの女に"なんか適当に頼む"と言うと、そいつは綺麗なピンク色の甘い酒とサンドイッチ、そして最後にホットミルクを出して。それからそこに行く度に甘い酒と軽食、そしてホットミルクがなにも言わなくても出てくるようになった。

初めてお互いの名前を知ったのも2度目の時だった。そいつは自分はまことと言う名前だと名乗って、君は?と聞いてきた。"土方だ"そう短く答えた俺にそいつ…まことは名字じゃなくて名前が知りたかったんだけどな、と言って笑った。

まことはとにかくよくしゃべった。聞いてもいないのに、シフトに入っている曜日や時間、店長が親切なこと、そしてその日に出した酒のことについてよくそんなに舌が回るなと感心してしまうくらいしゃべりつづけた。

不思議とそれをわずらわしく感じることはなかったと思う。もともと自分が話すよりも人の話を聞く方が好きだったこともあって、女にしては少し低めのよく通る声は俺のささくれ立った心を癒していく気すらした。

2ヶ月程たったある日だった。すっかり目の下のくまも消えて、適当に女を呼び出すこともなくなっていた俺にまことは寂しそうにこのバイトをやめて実家に帰るのだと告げた。

「急にどうしたんだよ。」
「んー…実は母親がそろそろ危ないみたいで。最期くらいは親孝行しようかなって。」
「…そうか。」
「土方さんも最初に比べたらずっと顔色よくなったから安心だしさ。」
「…そうか。」
「もしかして、寂しい?」
「そんなことねえよ。」

そうは言ったものの、実際は週に一度は来るようになっていたこの居心地のいい場所が無くなるのは俺にとってひどく恐ろしいことに思えた。しかし母親の病状を語るまことは一見何でもなさそうに笑っているように見えて目だけは笑っておらず、不安や悲しみや寂しさに揺れていて。それを見た俺には万が一にもこいつを引き留めてまうような言葉は言えなかった。

その次の月、まことがいなくなったその店に俺は通わなくなった。しばらくするとなぜかひどく気分が沈んで、食べ物の味がわからなくなった。仕事でのミスも増え、夜眠れなくなった。目に見えてやつれた俺に一度関係を絶ったはずの女どもがまた群がるようになった。その中には最近親しくなった同僚の恋人がいたせいで俺はまた独りになった。

「まこと…。」

深夜2時過ぎ、安いホテルの固いベッドの端に座って最近また吸い始めた煙草に火をつけながらその名前を呟いた俺はすっかりまことに会う前の生活に戻っていた。まことが店をやめてからすでに半年がたっていた。

「まことって誰よ。」

裸のままでベッドに寝ころんでいた会社の受付の女が俺の腰に腕を回しながら聞いてくる。

「もしかして女?私以外の女はみんな切ってくれるって言ったよね?」

ああ、うるさい。俺が欲しいのはこんなにヒステリックな甲高い声じゃない。先週まで俺の同僚とつき合っていたくせに簡単に俺に足を開くような、化粧とブランド品で自分を飾り立てることが自分の価値を高めると信じているような、そんな女との薄っぺらな関係じゃない。

時が経てば忘れると思っていた。俺はあの居心地の良さに甘えていただけで、まこと自身には何の感情も抱いていないと、ただあの居心地に依存していただけだと、そう思っていた。

しかしそれは間違いだった。あの少し低めの落ち着いた声が、毎日同じようで少しずつ違う仕立てのいいバーテン服を着こなしていたあの細身の身体が、毎回作ってくれたホットミルクが恋しくてたまらない。

会いたくて会いたくて、もう限界だった。

「…帰る。」

それだけ言って俺が先ほど脱ぎ捨てた服を着だすと、女が慌てて猫なで声を出す。

「ごめんうざかった?ね、もう言わないから、終電も無いし明日も休みだから朝までいてよ。」
「金は払っておくから。お前は朝まで居たらいい。」

向こうは可愛いと思ってやっているのかもしれないが、相手の女の態度は俺のいらいらを増させるだけだ。俺はそのまま一度も女を振り返ることなく部屋を出た。金を払って自動ドアをくぐると夜のひんやりとした空気が身体を包む。看板のネオンだけがにぎやかに光り続ける街に人影はなく、通りは閑散としていて音のない世界に迷い込んでしまったかのような錯覚に陥る。

俺がしばらく立ちつくしていると、その静寂を破って後ろからヒールが地面を蹴る独特のかつかつという音が俺の鼓膜を揺らした。振り返ってみるとそこにいたのはさっきまで同じ部屋にいた女で。朝までいていいと言ったのに、そう思っているうちに俺に近づいた女は右手を振り上げるとまっすぐに俺の頬めがけて振り下ろした。いわゆる平手打ちというやつだ。

「あんた何様のつもりよ!」

じんじんと痛む頬だけが音のない世界の中で唯一現実味を帯びていて俺は特に叩かれたことに怒るわけでもなく、悪いことをしたと反省するわけでもなくそこに立ちつくす。

「ちょっと顔が良いからって調子乗ってんじゃないわよ!」

その顔に釣られてついてきたくせに何言ってんだ、と思った俺の本音が口からでることはない。社内では美人だと噂の相手の女の顔がひどく不細工に見えた。

「あんたなんて私の価値を上げるアクセサリーみたいなものなんだから!」

そう言われてなぜかほっとした自分がいることに気づいて、俺は自分の口端が自嘲気味につり上がるのを感じた。俺にとってのこの女は所詮眠るための道具にすぎなかったのだ。さすがに俺にも罪悪感は在ったわけで。だから向こうが俺のことをアクセサリーだと思っていたのだと、お互い様だったのだと知って俺が感じたのは悔しさでも憤りでもなく安堵だった。

「さよなら。」

俺が何も言わないのをいいことにあれこれと今までの愚痴をぶちまけた後、女はただ一言決定的な別れの言葉を口にして一度も振り返らずに大通りの方へと早足で去っていった。きっとタクシーでもひろって帰るつもりなのだろう。俺も帰ろう、そう思ったが何故か足が動かず、俺はしばらくそこに立ちつくしていた。










→3へ続く
2011.11.20
 

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