曽根崎心中
□【生玉社前の段】前
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こんな浮き世に生きて居ても、どうせ此処じゃ、二人じゃ居れないって。赤司も黒子も、再会の抱擁もそこそこに歩き出した。
行き着く先には浄土が在ると、二人は其れだけを拠り所にして死に場所へ向かって行った。
「赤司くん」
「赤司くん」
「赤司、くん」
甘える様に、巫戯ける様に、黒子は赤司の手に指を絡めては、名前を呼んだ。もう後何れだけ、此の世で睦めるか判らないから。
赤司も赤司で普段なら突き放しそうなものなのに、今日だけは其の手を握り返して、儚く笑いながらどうした、なんて返したよ。
黒子が其れに何でもありません、とか答えても、全くってまたふんわり笑うだけだった。
叔父の営む醤油商平野屋の手代の赤司と、陰間茶屋の黒子。どうあっても釣り合いはしない存在だったけど、二人は互いの事を、そりゃあ深く愛していたよ。
赤司は何時か黒子を身請けしようと、日々叔父の店で黙々と働いた。其れが良くない事になったんだ。
叔父さんは赤司の働き振りを大いに買ってね。いや何、其れ事態は寧ろ良い事なんだ、上手くないのは其の後さ。
叔父には年頃の娘が居てね。其の娘が、働き者で容姿端麗な赤司の事をいたく気に入ってね。其の事を叔父に話したら、そりゃ叔父の方も大喜びだ。赤司が婿入りして店を継いで呉れたら、平野屋は将来安泰だからね。
早速叔父さんは赤司を呼んで、此の縁談を勧めなさった。
然しまあ、赤司は黒子と添い遂げる積もりだったからね、勿論此の話を蹴った訳だ。
赤司は其れで終わった積もりだったが、そうは問屋が卸さなかった。
叔父さんは可愛い娘と平野屋の為に、何としても赤司を婿に迎えたかったんだね。
其れで赤司の継母にこっそり金子を遣ったんだよ。銀二百貫もだよ? 何れだけ叔父さんと娘が赤司に入れ込んでるか、其れだけで良く判るじゃないか。
兎に角、其の金を継母が受け取ったもんだから、赤司の知らない内に娘との結婚が決まっちまったんだな。
此の事を知って、赤司は其れこそ飛び上がる位驚いたよ。慌てて暇を貰って家に帰って、渋る継母からどうにかこうにか結納金を取り戻した。
其れで赤司は一先ずは胸を撫で下ろしたよ。此れを叔父さんに返しさえすりゃ、件の婚約は破棄出来るからね。
今後叔父さんとの仲が気まずいもんになったとしても、叔父だって赤司みたいな優秀な手代を失うのは惜しいだろうからさ、白い目で見られる様になったって、叩き出される迄にゃあならんだろうと思うたんだ。
其れだって云うのに、運命ってのは何とも無情なもんだよ、なあ。
家から平野屋に帰る赤司の前に、友人の灰崎って男が現れてな。其れが赤司にこう言ったんだ。
「どうしても金が入り用なんだ。必ず、必ず返すから、頼むから金を貸して呉れないか」
冷淡な赤司だって、友人の頼みを無下に断れはしなくてねえ。何度も何度も頭を下げる灰崎に、到頭結納金を貸してしまったのさ。叔父さんとの約束迄は未だ幾らか日が在ったし、何と云っても灰崎は自分の友達だからねえ。
けれどまあ、其処は流石に商人だね。灰崎には、確り証文を書かせておいたんだ。
此の金が無くなっちゃあ、赤司はどう弁明したって平野屋に婿入りするしかなくなるからね。
「其れは本当に大事な金なんだ。お前を信用して貸すが、三日後迄には必ず返して貰う」
「勿論だ、必ず返す。男に二言は無い」
そう言った灰崎が腹に一物抱えてるなんざ、赤司に判る訳が無いじゃないか。
足早に町に消えていく灰崎を、そうして赤司は小さな溜め息と一緒に見送ったんだ。
其の約束から三日が経った或る日。
客の使いで生玉社前の茶屋を通り掛かった赤司は、其処で休んでた黒子を見付けてね。一緒に居た丁雑を帰して黒子に声を掛けたら、黒子はぱっと立ち上がって飛んで来たよ。
「何で最近会いに来て呉れなかったんですか?」
愛らしい唇を尖らせる黒子に、赤司は取り敢えずは謝った。
「済まない、何かとごたごたしていた」
「ボクの所になんか来れないくらいですか?」
黒子だって、愛しい恋人に暫く会えちゃなかったんだ。不満の一つくらい言いたくも成るよ。黒子は拗ねて外方を向いた。
そうは云っても、赤司だって黒子に会いたかったに決まってるじゃないか。
赤司は黒子を座らせて、自分も其の隣に腰を落ち着けて、訥々と近況を語って教えたよ。
粗方話し終わると、黒子が低く頭を垂れた。感情の儘に赤司を詰ったけども、退っ引きならねえ事情が在った事を知ったからね。赤司は気にしちゃない様で、構わないよっちゅうただけだった。
「言い訳がましいのは僕自身嫌いなんだが、……会いたくないから行かなかったと思われるのは嫌なんだ」
黒子の頼んだ茶を飲みながら言や、黒子の方がまた詫びた。
「ごめんなさい……。其れで、灰崎くんはどうしたんですか? 今日が約束の日なんじゃないんですか?」
言われて、赤司は嗚呼、と湯飲みを置いてな。
「先刻訪ねてみたんだが、どうやら留守の様だ。まあ確りしている奴だし、此の通りに証文も有る。金はきちんと返して貰うから大丈夫だよ」
「……そう、なんですか……?」
黒子がそう言って眉を下げたのと、赤司の目に灰崎の姿が映ったのとは同時だった。
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