ふわり、時折ぴしゃり。

□身の程を知り行動すること。
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ぴー、と音が響く。

天気の良い昼下がり。黄崋は元姫に借りている竹笛を吹きながら、桃の木の根元に座りこんでいた。あれから数日が経過した。黄崋は写しの合間はほとんど笛を吹いており、早くも一曲吹けるようにまで上達していた。

今日もその曲を吹くらしい。ある程度音が出ることを確認した黄崋は、そっと唇に竹笛を当てる。ゆったりと息を吸い、慣れたように吹きこむと澄んだ音が中庭に広がった。指先を滑らかに動かし、一音一音を丁寧に紡いでいく。頭の中で、父や母はどのように吹いていただろうか、と思い浮かべれば、楽しそうな父母の顔が浮かび、彼女の心も楽しくなる。感情が曲に乗ったのだろう。始めよりも軽やかになった調べに彼女は笑みを浮かべ、そのまま間違えることなく、綺麗に終わらせた。



「…ふう……吹けました」


まだまだ上手いとはいえない。けれども、一曲間違えずに吹けたことは小さな自信になった。彼女がホッと息をついた直後、突然影が降ってくる。顔を上げれば、賈充が竹簡を片手に立っていた。


「賈充様でしたか」

「笛の音がするかと思えば…こんなところで吹いていたか」

「ええ、今日はお天気も良いですし…。ところで賈充様、どうでしたか?」

「…?」

「笛の音です。少しは、上手く吹けたでしょうか?」


首を傾げて尋ねると賈充は、そうだな、と口元に手を当てる。考えるような素振りを見せる彼に黄崋はじっと言葉を待っている。早くおしえてほしい、とうずうずしているらしい。賈充は焦らすことが楽しいらしく、勿体ぶって、どうだろうな、などと呟く。けれども、あんまり黄崋が熱の籠った眼差しを向けてくるのでとうとう喉を鳴らして答えた。


「まだまだだな。擦れが目立つ」

「そうですか。ふふ…では、もっと練習しなければいけませんね」


良い評価をされなかったというのに、彼女は相変わらずご機嫌だ。きっと彼女自身も、たった数日で上手いと言われるとは思っていなかったからだろう。まったく気にせず、明日からの精進を掲げている様子に、賈充は熱心なことだと呟いた。


「賈充様はこれからまたお仕事ですか?」

「…お前を探していた」

「そうなのですか?」


きょとんとする彼女に、賈充は竹簡を渡す。中身を確認してもいいかという確認に、彼は頷いた。


「……まあ、地図ですね」

「この地図を、巻子に書き写すことは出来るか?」

「巻子…紙にですか?」

「そうだ」

「…出来ます。失敗しないとは、言いきれませんが」


黄崋は苦笑しながら答えた。紙は竹簡や木簡と違い、出来るまでに手間暇が掛かる。故に、まだまだ貴重の品とされている。また、竹簡は間違えても削り取ればまた使えるが、紙はそうはいかない。これは責任重大だ、と彼女は地図を眺めた。珍しく黄崋が仕事で困っていることに気が付き、賈充はニヤリと口端を上げる。


「失敗はするな。分かっているだろうが、紙は貴重だからな」

「そうですね。ですが、確実を要するのならそれなりの時間は頂きます」

「ほう…どれくらいの時を与えれば良い?」

「一日です。今から始めたとして…明日の昼までには出来ると思います」

「……いいだろう」


元々急ぎの用件ではない。賈充は彼女が提示した条件に頷いた。黄崋は笑みを浮かべて竹簡を閉じ、笛と一緒に持って立ち上がる。歩きだした賈充に続くようにして、彼女も歩く。


「それにしても、この地図を描かれた方は凄いですね。狼の住処や熊が出やすい場所も記されているなんて…」

「前に、その辺りに住んでいたことがあるらしい。元々は兵ではなく魏の領民だった男だからな」

「才をかわれて、仕官なさったということですね」

「そういうことだ」

「どんな方なのでしょう?」


御馴染の興味が湧いてきたのだろう。笑顔で尋ねる娘に、賈充はそうだな、と呟く。


「勤勉な男で、諸将からの信頼も厚い。…あの男を悪いと言う奴はあまりいないだろうな」

「賈充様も良い方だと思われますか?」

「俺は面と向かって話をしたことがないから分からん…が、噂を聞く限り子上よりは真面目だな」

「まあ…」


黄崋は目を丸くした後、くすくすと笑った。相変わらず、賈充は司馬昭の怠け癖に手を焼いているようである。きっと今日も仕事をしろと一喝したのだろう。少し眉間に皺が寄っている顔を見て、彼女は尚も笑った。





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