■ChanSung's Room■ 

□朔の女
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深い闇がこの館を覆っている。
満月は嫌いだが、新月はもっと嫌いだ。

何か不吉なことが膨らみ始める予感がする。
闇に隠れて練られた策略は、ひっそりと土に植え付けられ、やがて芽を吹き出すのだ。

その芽は日々膨らむ月のように、やがては満ち、花開く。恐ろしい悪夢のように、永遠に終わることを知らぬ恐怖の香りを振り撒きながら・・・

その夜、ウヨンはいつも通り館のレセプションで待機していた。予約の客が予定時刻より早く来ても良いように、常にそこにいるのがウヨンの仕事だった。

今夜も客の名が予約台帳に書かれていた。

「マトリョーナ」

異国の響きがした。

ジュンスにこの仕事を任されて以来、ウヨンはずっと考えていた。
なぜなのだろう?
なぜ女が男を買いに来るのだろう?
時には男が男を買いに来る場合もある。
何を求めて・・・?

そう、ここは男娼の館。
強力なパトロンの力で守られている快楽のオアシス。ジュンスはその総支配人で、自分は管理のほとんどを任されている。

人はなぜ人を買うのか?
ウヨンは永遠に終わらぬジグソーパズルのように、答えが出ぬままこの仕事を続けているのだった。

残りのピースがどこに隠されているのか分からぬままに。





ぎぃぃぃぃぃぃぃ・・・・・

ドアが開いた。
ほんの少しだけ開かれたドアの枠に、黒いレース製の手袋に包まれた女の左手が掛かっている。

驚くほど緻密に編まれたそのレースの合間から見えるわずかな肌は、気のせいかまるで
作り物のように青白かった。

ドアから見えるのは、ただの真っ暗闇。

幽霊か・・・!?

ウヨンがそう思った瞬間、ドアがまた「ぎぃ」と開いた。

ドアの向こうには女が立っていて、お揃いのミッドナイトブルーの帽子とクラシカルドレスに身を包んでいるが、顔と手は黒いレースのヴェールと手袋で覆われている。

少しだけ見える胸元や美しい形をした脚にもたくさんの黒い薔薇が這っていて、その姿は一瞬、本当の幽霊と見まごうほどだった。

少し間が開いた後、ウヨンは申し訳なさそうにドアを大きく開きその女を招き入れた。

「ジュンスは・・・いらっしゃる?」

「あ・・・」

「彼に招待状を頂きましたのよ。」

「は、はい・・・」

自宅に届いたのであろう招待状を黒いレースに包まれた右手でウヨンに渡すと、女は壁に掛かった絵画を眺めはじめた。

ウヨンはただ返事をするしかできずにいた。
ヴェールの奥の顔は口元くらいしかはっきりせず、その口が微かに動くのを見て取れるだけなのだ。

「少々お待ちください。」

やっとの思いで身体を動かし、奥の執務室にいるジュンスを呼んだ。

「マトリョーナ・・・」

女の姿を見つけたジュンスの声は、いつもより小さかった。

ジュンスの表情を推し量りながら、ウヨンは後ろに下がる。

「招待状をありがとう。素敵なところね。」

「変わっていないね、マトリョーナ。」

「ジュンス・・・相変わらず優しいのね。私はこんな姿になったというのに・・・」

ジュンスは女の言葉を聞いていなかったかのように話を続けた。

「今日は好きなだけいたらいい。で、今宵はどんな相手をご所望かな、マトリョーナ?」

女の右の指先が微かに震え、そして人差し指がぴくりと動いた。

「無口で従順な男を・・・口が固い方がいいわ・・・」

「本職でないのがいるが・・・口が固いのは私の保証付きだ。どうだろう、試してみては?」

「あなたのお勧めならもちろんそうするわ、ジュンス。今夜は・・・ゆっくりとさせていただくから。」

奥に下がっていたウヨンが呼ばれ、女の手荷物を持ち控室にエスコートするよう言い渡された。

目の端で女の姿を見ようとするが、恐怖で視線が定まらない。言いようもない嫌悪感と好奇心のバランスが今にも崩れそうになる。
この女の顔を覗き込んだら、身体が石になってしまわないだろうか?

じわじわと足元から固まりやがては心臓に届き、鼓動する生命のポンプをきりきりとその怨念で締め付けやがては死に至らせる。
そんな女のように思われた。

言われた通り女を控室に通すと、ウヨンはすぐにドアを閉めた。この女が纏う空気をこの部屋から漏らしてはいけない。ウヨンはすぐにドアから離れ、レセプションへ戻ろうとした。

遠くの廊下の灯りの下に、ひときわ大きい人影が見えた。歩みは遅く、何かに躊躇したような動きで手前に向かってくる。

戸惑ったような表情のその男は「聴唖の男」チャンソンで、無言でウヨンの横を通り過ぎた。そして鍵穴からさえも漏れ出る忌まわしい空気を割り、ドアノブに手を掛けようと腕を伸ばした。

「おい、その部屋は・・・」

ウヨンがチャンソンの腕をつかみ制止しようとしたが、チャンソンは譲らなかった。

「まさかお前・・・あのお客様のお相手を承ったのか!?」

こくりと頷くと、ウヨンに掴まれた右腕を自分の左手でそっと払い、視線をドアに向けた。

「ジュンス・・・一体何を考えているんだ?チャンソンは客を取らないただの掃除番だぞ?」

しかしチャンソンには分かっていた。
何か訳があるのだ。そして自分にしかできない何かがあるから呼ばれたのだ。

これから起きる「何か」を知らずにチャンソンは、女のいる部屋のドアを開けた。

ウヨンは、ただ顔を腕で覆うことしかできなかった。この腐臭にも似たあの女の空気を吸ってはいけない。
吸ったら・・・。

開いたドアがゆっくりと閉まる。
その合間に、またあの黒いレースに包まれた左手が見えた。

暗闇に浮かぶあの手がウヨンを誘っているようにも見えたが、ウヨンは瞼を閉じ頭を振った。

早くレセプションに戻るのだ。
あの二人を長く一緒にさせてはいけない。
チャンソンには例の秘密もあるのだ。
ウヨンが足早に廊下を歩く音が館中に響いた。

その音を聞きながらジュンスは執務室の椅子に座っていた。
そして考えていた。
なぜマトリョーナはここに来たのか。

初めて役目を果たした招待状。
過去何通も出しながら決してここまで辿り着かなかった招待状。その封筒を両手で持ちながら壁の肖像画に視線を馳せた。

「団長・・・マトリョーナが戻ってきましたよ。私達の所へ。」

額縁の中の初老の男は、シルクハットを被り、毛皮のコートを着ていた。
サーカス団の団長なのだろう。
しかしその肖像画は何も語らず、ただジュンスを見つめ返すだけだった。

「あまりにも時間が掛かり過ぎました。間に合えばいいのですが・・・。」
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