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□■チャンソン妄想■ 「襖」
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車の窓から見る風景がいつもと違って見える。
隣の運転席で、夫が先ほどから何かを呟いているけれど、それはいつものことだから気にはならない。
きっと道路標識でも探しているのだろう。
初めて走る道ではいつも決まってそうなのだ。
今日は二人の結婚記念日。
十年前の今日、私達は結婚したのだった。
そしてこれから車で向かうのは、夫が半年も前から予約してくれていた、人気の「隠れ家風癒し系旅館」。
一日三組限定で、全て離れの個室だからプライバシーも保たれているらしい。
二週間前のある日、夫が突然私にこう言い出したのだ。
「今年の結婚記念日は、十周年記念に少し遠出をするから。浩太はお袋のところに預けるよ。もう大きくなったから二日くらい留守にしても大丈夫だよな?」
子供抜きで二泊も。
そんなことを言うのは今までに一度もなかったのに。
浩太は私達の一人息子で、もう八歳になる。
二十四歳で結婚して二十六歳で生んだ。
でもそれから二年後には・・・。
「違うところでなら・・・な?」
どういう意図なのかは知らないが、夫のたっての希望なのだ。
きっと何か考えてのことなのだろう。
私は少しだけ胸を弾ませながら、旅館へと続く風景を楽しんでいた。
「いらっしゃいませ。」
旅館に着くと、若女将がすぐさま挨拶に出て来てくれた。
この日は一組キャンセルが出て、自分たちを入れて二組しか宿泊しないこと。
滞在中は自由に大浴場も、敷地内施設も使用してもよいこと。
控えめな声ながら手際よく、そして心の籠った説明だった。
私はすぐにこの宿が気に入ってしまった。
夫がチェックインの記帳をしている間、少し離れた長椅子に座って待っていた私には、お茶とちょっとしたお茶菓子が出された。
テーブルの上には「スパ&マッサージ」の案内が置いてある。
「心=身体=魂。自分自身を解放してみませんか?」
普段なら見過ごしてしまう広告さえ、目に入ってしまう。
やはり非日常的な空間というのは、そこにいるだけで何かを変えてしまうのだろう。
私はそれを手に取り読み込んでしまっていた。
「・・・み?」
「え?」
「秋生?」
「あ、ごめんなさい。チェックイン終わった?これ、つい読んじゃってた。」
「マッサージだね。興味ある?」
「あるよ。だってせっかくきたんだもん。何か特別なことして帰りたいな。」
「大丈夫。もう予約してあるんだ。二日連続で。」
「そうなの!!??嬉しい!」
「記念日だからね。」
はたから見れば珍しくもない、普通の夫婦の会話に聞こえるだろう。
しかし、ここ最近ほとんど夫婦の会話がなかった私達にとっては、これは奇跡の会話に近かった。
私達は、「セックスレス」そして「会話レス」の夫婦なのだ。
「そうね、記念日だもんね。」
仲居さんに荷物を持たれ、私達は和風のランタンで飾られた通路を歩き、中庭を通って離れの個室に案内された。
落ち着いた和室の一部屋。
私が現実の世界から切り離され、深く甘い闇に堕ちてゆく瞬間だった。
cr. kyonco