指先だけで、甘い熱を…
□林檎色の唇。
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『旦那さん…女がいるんでありんすな』
「ん?…何の事だ?」
鯉伴はお猪口を持ちながら不思議そうな顔をする。
それを見て、私は持っていた徳利をゆっくりと膳の上に置いた。
カタン…。と、静かな部屋に小さく音を立てる。
『わっちは見たんでありんす。…旦那さんが親しげに外の女と歩いているところを』
「女…?……ああ、乙女の事か?」
しばらくお猪口の中にある酒を見つめていた鯉伴だが、私の部屋に飾ってある彼岸花の花弁が、風に吹かれて一枚。
鯉伴の膝の上に舞い落ちると、思い出したように彼岸花の花弁を取った。
『もう…ここには来ないでおくんなんし』
「は…?」
私の一言で、空気がピシリと凍る。
鯉伴は花弁を落として、私の方へと勢いよく振り返った。
『二度は言いんせん。わっちは…外に女がいる男とは関わりとうありんせん。ただ…それだけでありんす』
ふいっ…と、顔を横にそむけて不機嫌だという事を示せば、慰めるように伸びてくる逞しくて長い腕。
その腕は、山吹乙女という女にもしたのと同じように、肩に親しげに腕を乗せ、自分の方へと引き寄せる。
そして…耳元でこういうのだ。
「俺は…アンタだけだよ、琉威」
その言葉がどれほど私にとって…遊女にとって残酷なのか、この男は知らない。
『……。その言葉は信じせん。そう言われて裏切られる女を…わっちは何度も見てきた。もちろん…その言葉を信じて男を待ち続けた女がどうなるのかも、知っているでありんす』
「…何回もね。俺も甘く見られたものだな?花魁よ…」
クスクス笑いながら、鯉伴は私の首元に顔を埋めて、首元に付けている香の香りを嗅ぐ。
それが少しくすぐったくて、私は身をよじった。
『っ…何が…言いたいでありんすか…』
キッと睨んで見つめると、少し体を離し、真剣な顔をして鯉伴は言い放った。
「過去に見てきた女がなんだ。男がなんだ。俺は…アンタが思っている以上に執着心もあるし、気に入った奴を裏切ったりはしねぇ。絶対にだ。何があっても離れねぇし、危機が迫ってりゃ助けてやる。力を貸してやる。…俺は、そういう男だよ」
『…それでも、わっちは旦那さんの事が…』
「信じられないか?俺が…いや。男が。……アンタの過去に何があったのかは知らねぇ。だがな、俺のこの気持ちだけは信じてくれ。アンタに惚れているというこの気持ちだけは」
そう言って、ぐっと前から私を抱きしめる。
今までにない程…きつく、愛情の籠った抱きしめ方で。
少なくとも、それと鯉伴の告白は、私の思考回路を破壊する威力を十分持っていた。
つまりは…動揺した。
まさか、告白されるだなんて思ってもみなかったから。
『っ…な、何を言ってるでありんすか。旦那さんが何と言おうとわっちは…。…わっちは、遊女でありんす。旦那さんの気持ちには…』
「答えてくれなくてもいい」
『!』
「アンタにこの気持ちを伝えられただけで十分だ。琉威が、この気持ちを知ってくれてるだけで…」
そう言ってフッと優しい笑みを浮かべる鯉伴。
私はその笑顔を見て、泣きそうになった。
なんてこの男は馬鹿なんだろう。
どうして私はこんなにも素直になれないんだろう。
(…馬鹿な人)
私が半妖だとも知らないで。
『…そうで…ありんすか』
顔を見られないように、そう言う事しかできなかった。
胸が苦しい。でも、満たされているような感覚がある。
何だろう…?
この温かい気持ちは。
『本当…馬鹿な人』
「ああ。花魁、緋里に惚れちまった、馬鹿な男だよ。まぁ、告白もしたし?あとは…じわじわ落としていくだけだからな。アンタも覚悟しろよ?俺はしつこいぜ(ニヤリ)」
『ふ…。わっちも相当厳しいでありんすよ?遊女である限りは、旦那さんの事は全く信用してありんせんから(クス)』
そう言うと、目を丸くして私を見るあたり、この男は私を落とすのはまだまだだと思う。
体は…もうあなた色に染まりつつある。
だけど…やっぱり駄目だった。
(本当は…今すぐにでも行きたい…)
でも、私の心が拒否する。
また、裏切られるのではないかと。
怖い。…すごく怖い。
この男が私の前からいなくなるのが。
いなくなったら最後、私は本当に誰も信じられなくなってしまうのではないか。
全てをはねのけ、永遠に1人で生きていくのではないかと。
怖い。
恐ろしい。
(……鯉伴…)
一度失ってしまったものは、二度と手に入らない。
…悲しい過去、思い出。
親に捨てられた悲しみ、怒り、悔しさ。
全てが、私を支配する。
でも…私は変わった。
『……』
あなたから与えられる温もりを再び感じ取ってしまった私は、もう…元の冷たい存在には戻れないのかもしれない。
『やっぱり…ここに来る男は信じられないでありんす』
「それを…いつか信じられるようにしてやるよ」
あなたはそうやって私を溶かしていくんだ。
とろとろと…真っ赤な林檎が砂糖漬けのように甘くなるまで。
林檎色の唇。
(その唇で、私はつきたくない嘘をつく)
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