過去拍手御礼novels

□つまみ食いトラップ
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「あー………腹へったなァ…………」



船の中でしばしば聞かれるその台詞が、それを口癖としている人物から発せられたものではなかったことに

黒い活字を追っていた目を思わずキッチンに向けた。


「……珍しいわね。サンジくんがそんなこと言うなんて……」


ルフィじゃあるまいし。


そう言って新聞をたたむと、サンジくんは生クリームをかき混ぜていた手をぴたりと止めた。



「え…………声に出てた……?」


「えぇ、そんなにお腹空いたなら、何か食べればいいじゃない」


「あ……あァ、そうなんだけどさ……」



曖昧に笑ってボールの端でカンカンと泡立て器のクリームを落としたサンジくんは

代わりにヘラを持ち出してダイニングに入ってきた。



「なに?そんなに食料不足なの?」


「ん?……いや、そんなことはねェけど…」


先程からテーブルの上に置かれ、すっかり粗熱も取れた土台に素早い動きでクリームが塗られていくのを見物する。

サンジくんの繰り出す華麗な手さばきは、何度見ても魔法みたいで見ていて飽きない。



「……まさかダイエットしてるなんて言わないでしょうね?」


「えぇ?いやいやまさか。レディじゃあるまいし…」



綺麗な手と、その手の動きに見とれていた視線を上に向けると

眉を下げて苦笑いしているその顔はいつ見ても癪なほど小さくて、

ゆくりなくも嫉妬の視線を向けてしまう。




「だいたいね、サンジくんは少食すぎるのよ!もっとガッツリ食べなきゃ!」


それ以上細くなられたら、こっちの立場ないんだから!


「…………おれ、少食じゃねェよ?」


目をぱちくりさせて不思議なものでも見るかのように見つめられ、

あれ?そうだったかしら?と、私も首を傾げた。



「……そう?サンジくんがたくさん食べてるとこって、あんまり見たことない気がするけど…」


作っているところばかりで、食べるのはその合間だから、

きちんと食卓に着いているところすら、めったに見ない。


「ハハ、こう見えて、大食漢ですよ?おれ」


「えー?……そうだったの?知らなかったわ……」


船の男連中の中で、最もその言葉が不釣り合いな彼に首をひねりつつ、

いつの間にか半分ほどが化粧されていたケーキに視線を戻す。



「食べ出すと止まらなくなっちまうから、セーブしてるのさ。普段はね…」


「あー、なるほどねぇ、すごーくよくわかるわ、それ」


「でしょう?」と笑っている合間にも、色とりどりのフルーツを間に挟み、

二段目の塗装に取りかかっているその長い指に、釘付けの私。


「……でも、たまには我慢しないで食べたいときに食べた方がいいわよ?」


「…………我慢しないで……」


「えぇだって、ストレスたまるでしょ?」


ぴたり、と再び手の動きを止めたサンジくんはヘラからボトッとボールの中にクリームを落としながら呟く。




「………あァ、すげーストレスたまるな…………」




苦々しく眉をひそめた表情と、やけに感情のこもった声色から、

現在彼は近年まれに見る相当な空腹なのだろうと悟る。

そんな言いも言われぬ空腹の中、甘い香りを間近で感じながら

ケーキを完成させていくことがどんなに辛いかなんて、想像に耐えがたい。


「じゃあほら、一緒に食べましょうよ、完成したら」


「え…………?」


「そのケーキよ。ホールなんて私とロビンじゃ食べれっこないもの」


手元に視線を戻したサンジくんは、何故か腑に落ちない顔で笑って私を見た。



「……んー、それもいいけど…………」



「いいけど……?」



苺の蔕をとりながら考える仕草をする目線がセクシーで、ついつい盗み見てしまう。

もはやガン見に値する程でもあるけれど、相手がサンジくんなら言い訳がきくからやめられない。



ケーキを見てたのよ……って。




「つまみ食いしちゃう?」


「つまみ食い?」



瞳を見つめていたから、ふいに顔を上げたサンジくんと思い切り目が合った。


「そ、つまみ食い。これ、完成したら冷やさなきゃならねェからさ、それまで待てねェし……」


「本当にお腹空いてるのね」


「うん、もう腹へって敵わねェよ。ナミさんも食べてェだろ?……ずっと見てたし」



にこにことそう言われ、ドキリと胸が鳴る。

確かにずっと見ていたが、ほとんどはサンジくんの指や瞳だ。



「…えぇ、だってすっごく美味しそうなんだもの」


「だろ?ナミさんのための特注だからね」


どれがいい?そう訊ねられ真っ赤な苺を指差すと、

サンジくんは躊躇もしないでそれをつまみ、クリームをつけ、私に近づいた。



「はい、どうぞ」


「…………」


王子様スマイルもたいがいにしなさいよ。

と心の中で毒づき、もたもたしながらパクリと苺をくわえたとき、

サンジくんの指先が、一瞬だけ唇に触れた。




「あ、いっけないんだー、つまみ食いっ」


「…………あんたね、共犯でしょうが…」



「そうでした」と子供みたいに笑う楽しそうなサンジくんの、

普段の煙草やスーツが似合う大人っぽい雰囲気とのギャップにドキドキしつつ、

口の中の甘い果肉を飲み込む。




「じゃ、今度はおれの番ね」



意気揚々としゃがんでテーブルに肘をついて見上げてくるサンジくんを、じとりとした目で見つめる。



「……それが目的じゃないでしょうね?」


「やだなぁ、ナミさんに食べさせてもらうから美味しく食べられるんですよ。それに、人から食べさせてもらえばセーブできるだろ?」


「……はいはい、わかったわよ、どれがいい……………」



呆れたように呟いてカットフルーツの入ったボールを引き寄せようと伸ばした手を

突然サンジくんに掴まれた。



「コレ」



そう言って指名されたのは私の唇で、

次の瞬間には言葉通り食べるように彼の唇が重ねられた。



「……っ!?……ちょっ、なにすんのよ!?」


「おれもその苺が食べたかったんだって」


「い……いちごなら他にも……」


「いやー、なんつーかさ、好きな子を前にどうにもおさまりがきかなくなっちまったんだよね…」


「…………な、」


「だってさ、美味そうなんだもん……」


「なに…………」


「あー…ごめんね、言葉足らずだったかなァ?」



いまだ私の両手をふさぎ、息のかかる距離で呟いたサンジくんは

優しい紳士の顔を、少しずつ解いていく。




「腹へってるっていうのは、空腹だって意味じゃねェんだ……」


「…………」



ゆっくりと細められた瞳には光が宿り、


弧を描いた口元には牙が現れた。






「ムラムラしてる……って、意味だから……」



「……っ」




目の前にいるのが金髪の王子様ではなく、スーツを着た狼だと気づいたときにはもう、

獲物の私はその毒牙の中にいた。




「ナミさんさ、“我慢しねェで食べた方がいい”って言ったよね?」


「そ、それは……!!」


「おれ、今最高に腹ぺこなんだ……」


「…っ、待って、まっ……」



迫りくる目眩をおこしそうな誘惑に耐えきれず身を捩ると、

サンジくんは私の腕を力強く引っ張って耳元に口を寄せた。




「ナミさんだって見とれてただろ、…………おれに」


「…!ち、ちがう…っ!私はケーキに……!」


「うんうん、わかってるよ、美味そうだって言ってたもんね?ナミさんにだけ特別。食わせてあげるから、さ……」


「っ、も、ちがうってば……!」



くすくす笑って身体を擦り寄せてくるサンジくんに気が触れてしまいそうで俯くと、


それを咎めるようにすかさず顎を持ち上げられる。




「やっぱりさ、つまみ食いは危険だよなァ……止まんなくなっちまう。ナミさんも、そう思うだろ?」


「……っ、サンジく……」



涙目で見上げても、それはただ彼の食欲をそそるだけ。


餌食になった私はただ、


食べられるのを、待っている。




「いつもはおれが、ナミさんの食欲を満たしてあげてるけどさ……」



「…………っ」



「たまにはナミさんが、おれの欲求を満たしてよ………」



「……そ、そんな……」




先程まで生クリームを操っていた綺麗な手が


私の頬をゆっくりと撫でる。


色とりどりのフルーツに注がれていた切れ長の眼差しが


妖艶に瞳の奥を覗きこむ。





「あいつらに怒られるな。コックのおれが、つまみ食いなんてしてたら…………」


「…………だったら、やっぱり……」


「けどさ、ナミさんだってさっき、つまみ食いしちまっただろ…?ざーんねん…………」


「………………っ」





流されてはいけないと開いた私の唇に


長くしなやかで、甘い香りがする人差し指が



すっと一本立てられる。



その香りに先程の味と感触を思い出した私の中で


罪悪感とスリルを乗せた天秤が、キィッと音を立てて傾いた。











「おれたちもう………共犯だよ?」












つまみ食いトラップ












お腹を空かせたイカサマ紳士の



甘い魔の手に囚われる。









END

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