過去拍手御礼novels
□見せかけ天使と業火の焼け跡
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知れ渡ればいいと思っていた。
針の穴ほどの小さな綻びだって、きっとあいつの王子様は嗅ぎ付ける。
尻尾でも出そうものなら引き裂かれるほど噛みつかれるのはわかっていた。
おれがナミに触れたこと
それがあいつにとっての悪夢そのものだ。
ナミに向けてへらへら笑っているその顔を怒りで赤くして、
優越感に浸っている余裕の態度を取り乱して、
ほつれた糸を解くのに、躍起になってくれればいい。
ナミがおまえだけのものだと思ったら、大間違い。
おれは、知ってる。
小さな唇もわたあめみたいにふわふわした肌も宝石みたいにきらきらした瞳も、
全部全部、
触って舐めて、見つめて聴いて、繋げてやった、おれが、おれが、おれが…………
おれが、何百万回叫んでも足りないくらい、
ナミを愛していること。
この手で、口で、身体で、死ぬほどナミを愛したこと。
自慢して、触れ回りたいくらいに誇らしくて、嬉しくて、
いっそのこと、この海に、空に、世界に…
白日の下に、晒されればいいとー−−
「………………」
「…………悪ィがルフィ……飯はまだだぞ…………」
言葉を失った。
その腕に抱えられたナミの身体のあちこちに、
見るも痛々しい、所有の証が刻まれていたから。
「……………お、……おう……」
「…………野郎共はもう起きてるか?」
「…………ああ、たぶん」
死んで……ねェよな……?
そんな冗談めいた考えが浮かぶほど、ナミの身体は人形のようにぴくりとも動かない。
もうとっくに朝飯の準備が終わっているはずの時間、鉢合わせた芝生甲板、
腕の中で沈黙するナミに、サンジはゆっくりと視線を向ける。
とり澄ましたその瞳の温度の低さが、おれの背筋に鈍い衝撃をはしらせた。
「……ルフィ、おまえはダイニングに行ってろ……すぐに準備する……」
「………………」
ふわり、煙草とシャンプーの混ざった匂いが鼻先を掠める。
まるで女部屋には近づくなと釘をさすみたいに言い残して、サンジはおれの横をゆったりと通りすぎた。
大きくなる動悸を耳に響かせながら、振り返る。
後ろ姿のサンジからはみ出た細い足にまで見られる点々、
昨日自分がつけたものとは違う、それ。
見える位置に、これ見よがしに残された生々しい痕。
まさか、まさか、
一晩中、ナミを抱いてたっていうのか……?
「…………っ、」
おれが噛みつかれるのは、いい。
おれに憎しみが降りかかるのは、構わない。
だけど……
まるで昨日の事を忘れているかのような、呆れるほどの冷静さと、
ナミの身体に残されたむき出しの烈火との、大きなズレに、
激震した。
全てはおれに向かってくるものだと腹を括っていた。
怒りも、罵倒も、憎しみも、苦しみも、妬みも、何もかも……
だけど……
青く歪む炎のような嫉妬の矛先が、ナミに向いた……
ーー−
「ルフィ……」
「……んー、なんだー?……島でも見えたか?」
何日経っても、ナミの身体の痕は消えなくて。
露出の少ない服を着て、困ったように「違うけど……」と眉を下げたその顔から目を逸らす。
「おまえ……ここにいたらサンジに怒られんじゃねェのか……」
「………………」
ナミの傍を片時も離れなくなったサンジによって、
消えても消えても刻まれ続けるその印は、おれを見張るための警告の赤い瞳。
「行けよ……」
釣竿を握り直して、ぴくりともしない浮きを睨む。
……それにしても、今日は釣れねェなァ。
「………………」
ナミは何も言わず遠慮がちにおれの服の裾を引っ張って、
その仕草が、胸が痛くなるほどに愛しくて、嬉しくて、きつくきつく、竿に指を立てる。
サンジがナミを縛る、そしたらおれも、またナミを、縛りたくなる。
……堂々巡りだ。
「…………触んな」
「ルフィ……聞いて……」
「触んなッ!!」
「っ、」
なんで、どうして、そんな色で見上げてくる瞳、
純粋なその輝きも、唇も、肌も、おれが汚した。
汚した痕を消そうと、サンジがまた、上塗りしていく。
「あっち行けよ……」
「ルフィ……なんで……」
見たくない、見たくない、煙草の匂いのするおまえ、あいつの腕に引き寄せられるおまえ、あいつに華のような笑顔を向けるおまえ、
“あいつの”、おまえ……
「……っ、おまえらが…!べたべたしてっからだろ……!!」
「そんな…………」
「そうだろッ!!毎日……抱かれてんだろ、あいつに!!……新しい痕、毎日、つけて……おれの前に来んなよッ!!!」
「………っ」
理不尽なことを言っている。
いくら縛っても、おれだけのものになんてならないことも、
心のどこかでわかってる。
ナミは、ひとりしかいないのに、
そのひとりは、あいつのものだとわかっていたのに、
どうしておれは、そのひとりを…………
「おいおいルフィ……」
宙を浮遊するように滑らかな声の主が、おれに弾かれたナミの指を絡め取った。
「…………サンジ……」
「レディは優しく扱うもんだぜ?」
大丈夫かい?ナミさん……
恭しい物腰でナミの視線を奪い取り、
繊細な手つきで頬を撫でる指先。
「サンジくん……」
「おやつができたよ、キッチンにおいで?」
「サンジくん……あの、」
「……あ、それとも部屋までお持ちする?」
「ま……まって、」
「待てねェよ……早く行こう……?」
甘ったるく囁いてナミの腰を引き寄せ詰め寄ったサンジが、
その唇にキスを落とした。
まるで、おれの存在なんてこれっぽっちも見えていないかのように……
「っ、オイ……ッ!!!」
釣竿を甲板に叩きつけ、
衝動的に、ふたりを引き剥がす。
「…………どうした、ルフィ……」
顔のどこにも皺をつくらず無表情に取り繕って、声まで乾燥させたサンジに、怒鳴る。
「お、おまえ……!なにしてんだよッ!!」
「なにって……キスだが……見てわからねェか?」
それ以外に何があるんだ?
鼻で笑うように呟いてナミの耳に唇を寄せようとしたサンジの襟を、掴みあげた。
「違ェッ!!そんなことじゃねェ!!おれがッ、おれが言ってんのは…!!」
「…………目の前で、キスなんてするなと言いてェのか?」
一気に息を吸って、吐く。
おれに身体を揺さぶられても、慌てる素振りも焦る様子も見せずに海の方にふらりと意識をやったサンジと、
その態度に取り乱す自分が、
いつかのふたりと逆転していることに気づきひどく動揺した。
「……あっ、当たり前だろッ!こんなとこで……!」
蒼い揺れをぼんやりと眺めていたその瞳が、ゆっくりとおれを見据えた。
深海の冷たさまで持ってきてしまったようなその冷酷さに、ぞっとする。
「何か……問題でもあんのか……?」
白々しい声色が、おれの中の焦燥をかきむしる。
「っ、やめろよ!!サンジッ!おまえ、おれの前で、ナミと……ッ!!」
ルフィ…………
船の縁に追い詰めて食ってかかったおれの名前をポツリと呟いて、
煙草を取り出し火をつける余裕の仕草。
ただならぬ雰囲気に、甲板の視線が集まり出す。
「いいかルフィ……おれはナミさんの、“恋人”だぞ……」
「……っ、」
「おれが彼女とキスをして不都合に思う連中が、この船にいるのか……?」
「………………」
「いるわけねェよなァ……つーかまァ、いてもらっちゃ困るんだが……」
ナミさんの恋人は、“おれひとり”なんだから。
「………………」
きっちり整えられた襟が、震えるおれの手でくしゃりと皺になる。
喉の奥からは熱が上がって溢れてくるのに、歯ぎしりをしたおれの口からは、どんな言葉も出てきてはくれない。
冷淡な眼差しでおれを見下ろしたサンジは、抑揚なく呟く。
「……多少人前でイチャつこうが問題ねェだろ……ルフィ、こんなに魅力的なレディが彼女なんだ、“仲間”に……少しくらい見せびらかしたところでバチなんて当たんねェんじゃねェのか……?」
「………………」
ふーっ……
潮風が、純白の煙を拐っていく。
やけに目に染みるその靄が、
まるで表に出ることを許されないおれの想いみたいに
あっという間にかき消され、無くなっていく……
見えるところに印を刻む権利、
それが許される、関係……
サンジにあって、
おれには、ないもの……
「おまえはもう、ガキじゃねェんだろう?ルフィ……」
「………………」
“おれはもう、ガキじゃねェぞ……”
あのときの、怒涛のようなサンジの様子が頭にチラつく。
目の前で悠々と煙草をふかす仮面の男は、いったい誰だ……?
「おまえがナミさんにどんな想いを抱いていようがなァ……抜き差しならねェ事情ってもんがあるんだぜ?大人の世界にはよ……」
「………………」
縛られたように動かなくなったおれの手を、諌める手つきで払いのけ、
すれ違いざまに肩に手を置いたサンジは、
狂ったようにどこまでも続く蒼い海で視界をいっぱいにして佇むおれの、
耳元に近づいた。
「おまえも男なら、かわいい彼女を持っちまったおれの気持ちがわかるだろう……?」
「……サン、ジ……」
「キスくらい……見逃してくれねェか?なァ、……“船長”…………」
「っ、」
悪いのはどっちとか、ルールとか、掟とか、道徳とか、
そんなもの、関係ないと勇んでた。
好きだから、名前を呼ぶ、近づく、触れる、キスをする……
だけど、どうだ、
おれたち三人に向けられる、甲板からの視線は……
隠さなきゃいけない、服の下に……
隠れなきゃいけない、闇の中に……
海にも、空にも、世界にも……
本当はどこにも知れ渡ってなどいけない、
胸の内は、がんじがらめなのに。
「さ、行こうかナミさん」
「……サンジくん………」
ごく自然にナミの腰へと腕を回し、堂々と寄り添う男を横目に入れる。
その手によって大切に大切に導かれるナミの首もとには、所有を示す真っ赤な印。
何か言いたげに歪んだわたあめみたいに柔らかい唇よりも色づいたそれは、
燃え尽きようとも消えることなくやっぱり真っ赤で、
傷ついたような表情さえとりもなおさず愛しい想い人と目があった、その瞬間、
何百万回叫んで声を枯らしたって足りないほどの、悔しさが、
身体中に込み上げた。
見せかけ天使と業火の焼け跡
声に出してはいけない願い。
END