過去拍手御礼novels3

□愛する男を殺すなら
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ーー毒なんて、入ってないわよ。



なんて冷たい女でしょうね。


あの時も、熟れたその実を差し出しながら、心の中で笑っていたのだから。

いつものように唇を結んで、感情の上に蓋をしていればよかったのに。

私の育てた甘い誘惑に、あんたはらしくもない油断をしていたわ。

この手で触れることのできるものしか信じない。信じるものは、仲間とお金。

私たち、そんな似た者同士だったじゃない。




ーー−



「ずっと思っていたのよね」

「…………」

「まるで、虎の巣に囲われた兎なんだもの」

「……何の話だ」

「今のあんたの話。人を警戒しすぎなのよ、ローは」

「気安く名を呼ぶな」

「ほら、そうやって」


波の音に似たリズム。

不規則に打ちつけてくるくせに、気づけば身体の奥に染み込んでいる。

離れていったかと思えば思い出したように迫ってきて、名残が消えないうちにまた痕を残していく。


海の男は、波の音が好きなのよ。



「おかしな喩えで人をおちょくるな」

「的を射てると思うけど?」

「おれが臆病だとでも言いてェのか」

「そうじゃなくて。もっと私たちに心を開いてくれてもいいんじゃないの?」

「おまえらとは、友達ごっこをしているわけじゃねェ」

「でも、私はあんたのことを、もっと知りたいわ?」


その瞳の中には、冷水のような微笑みの私がいたわ。

でもそれが不思議なことに、その晩のささやかな月の光が純情な微笑みにも見せていた。


傷つきやすい氷の心に、また、鋭い波の音が打ちつける。


「…………」

「それに、」


あんたにも、もっと私を知ってほしいの。



そう囁いた夜から、私の髪と同じ色の果実が茂る木の傍で、並んで海を眺めたの。

約束もしないのに、海に浮かぶ月の光だけを頼りに肩を寄せるなんて恋人めいた狂言を。

私が語りかけることがほとんどだったのに、あんたはいつしか自ら話をするようになったわね。

あの時のように、私は時々枝から一房の果実をもぎ取って差し出した。

もう、何もためらうことなどなく、あんたはそれを自分の身体の中に受け入れた。

柔らかな果肉の中には、一滴の毒も入っていないと信じていた。

太陽と潮風に育った豊かな香りはいつでも喉を潤して、そして、錆びついた鉄塊のような重い扉をゆっくりと押し開く。


ーーけれど。


賢いあんたは、同じように、私が甘い果実を他の男に与えていると、すぐに気がつく。

殊更でなかったのは本当だけど、少しの罪悪感もなかったわ。


あんたはこう思ったはずよ。


“ああ、やっぱり。そこら中に転がる体のいい産物なんて。綺麗なだけで、いつかおれを裏切っていく”

“おれはもう、不確かなものなど信じない”


とね。



「何をそんなに怒っているの?」

「…………」

「……ねぇ」

「もう、おれにかまうな」

「急にどうしたのよ?私、何か怒らせるようなことした?」

「急じゃねェな。最初から、あんたとおれは敵だろうが」

「………どうしてそんなこと…」

「目障りだと言ってんだ。あんたの存在が」


私が傷ついた顔を見せれば、どうせそれも、ただのつくりものなのだろう。なんて、それこそガラス細工のような瞳が言ったわ。

もともと赤の他人同士。馴れ合わなければ、傷つけ合うことなどないものね。


「……ロー…」

「気安く……名を呼ぶな」


ああ、めんどう。


愛なんて、靄のような曖昧なものに心を弄ばれる人間は、なんてめんどうなのかしら。



「ふーん、やっと毒がまわったの」



この手が差し出したのは、いつものように甘い匂いをさせた果実。

毒なんて、入ってないわよ。私はあの時確かに言った。

そんなペテンに、あんたは二度と騙されない。だからもう、つまらない嘘なんてつく必要はないじゃない。


その、氷を沸騰させるような胸の奥の感情を、教えてあげる。



「……戯れ言が」

「痺れて動けなくなってるくせに、強がりね」

「くくっ、…納得だな。あんたがおれに近づいたのは、こうしておれを嘲笑うためだろう」


なんて冷たい女でしょうね。

熟れたこの実を差し出しながら、今も、心の中で笑っているのだから。

あの時だって、いつものようにただ唇を結んで感情の上に蓋をしていれば、よかったのよ。

そうすれば、目に見えないものに騙されて、そんな気持ちになどならなかったのに。




こんな気持ちになど、ならなかったのに。




「あんたを、殺したいと思ったの」

「馬鹿馬鹿しい」

「でもそれが、究極の愛だと思うでしょう?」


乱暴に引き寄せられた手首に、細指の痕が刻まれていく感覚。

血のように真っ赤な舌が、オレンジの光る球体を這っていく。

真っ直ぐ私を捕らえる瞳はまるで、氷の矢。

砕かれた皮の中から酸味の強い果汁が滴ると、この身に歯を立てられたような気持ちがした。




「試してみるか?どっちが先に、殺られるか」



なんて冷たい男でしょうね。こうしてずっと、私を殺せる機会を伺っていたのだから。

油断したのよ。あんたの心が、氷のように繊細だったものだから。

まさか、そんなに熱いマグマが氷漬けにされているなんて、夢にも思わないじゃない。

だけどそうね、そういえば、あんたと私は似た者同士。



ああ、めんどう。


愛なんて、靄のような曖昧なものに心を弄ばれる人間は、なんてめんどうなのかしら。




愛する男を殺すなら




私の育てた毒入り果実で。



END


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