過去拍手御礼novels3

□side-Nami
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はじまりはよくあることで、きっかけだって思い出せないわけではない。

進んだ先ではいつも選択肢が用意されていて、選び取ったのは自分の意思。

だから、この感情がどこからやってきたのか、知らないわけではない。

だけど、およそ綺麗とは言えないその灰色を、大事にしていいものとは思えなかった。


「来ないで」

「そうやって一生、おれともあいつとも顔を合わせずにいるつもりか」

「放っておいて。誰とも話したくないの。あんたとも」

「風向きが変わって、今さら怖じ気づきやがったか」


測量室の本棚に預けた背中が、みしみしと軋む音がする。



「そうよ…あんたの言う通り、怖くなったの。あんたと関係を持ったこと、後悔してる」

「ずいぶんな言われようだな。そんなにあいつが大切か?おまえなら男の一人や二人、簡単にとっかえられるだろう」

「女なら誰でもいいあんたには、わからないでしょうね」

「そうか、おまえがこれ以上おれと関わる気がねェって言うなら仕方ねェ…」


冷たい床に響いた足音が目の前でぴたりと止む。顎にかけられた、馬鹿みたいに強靭な人差し指の力に負けて目を合わせると、あの時と同じ表情のゾロがいて、言いかけた言葉を飲み込んだ。



「次の島で商売女でも買うしかねェな」



指先にピリピリと走った電流のような痛みは、私だけが感じているものなのだろうか。

顔の向きは叩かれた時のまま瞳だけを動かしたゾロは、その視線の強さとはかけ離れた力のない声で呟いた。


「……おれが、他の女のものになってもいいのか?」

「……最っ低…」

「結構だ。そのおかげで、後悔したって戻れねェことがわかっただろうが…」


優しさとか、思いやりとか慎ましさを求めるわけじゃない。この男は、私の恋人だった人とは何もかもが違うのだから。

周りの目などものともせず、悪者になることさえためらわない、鉄のような心を持っている。

憤りの熱と一緒に瞳から吐き出されたものが、頬の上を転がった。

これは、影のように触れられないのに私の中に確かに存在するものの欠片だろうか。名前のない感情は、いつまでも、無名のままで良かったのに。



「おれは、こうなることを覚悟の上でおまえを抱いた」



こんなふうに自覚してしまったから、本物の恋人を、私は二度と愛せなくなったのだ。


「勝手なこと…言わないでっ、」

「勝手だが、本当のことだ」

「違うわ!あんたは、誰でもよかったのよっ、私じゃなくても、誰でも…!」

「おれがいつおまえにそう言ったんだ」

「ううん、言わなくてもわかる、あんたは女とヤれればそれで、」

「おれはな、ナミ、情もなくおまえを抱いたことは一度もねェんだよ」

「違う!あっちに行って!聞きたくない!!」

「うるせェ。てめェ、少しは黙って話を聞きやがれ」

「……んっ!」


人を何だと思っているのだろうか。どんな反論もお断りというように、私の声は広い掌に押し潰された。そして。


「勘違いするな。おれはただ女とヤりたかったわけじゃねェ…」

「…………」

「あのときも言ったはずだ。酔っぱらってて覚えてねェなんざ認めねェぞ。おれは、ただ…」

「…………」

「……おまえが、欲しい……ずっと、欲しかった……」


ーー今も。


今も、この男が私の言葉を奪い、ノーと言うことを許さない。

でも、それだけではないことに、私はとっくに気づいている。

たとえば今すぐこの声が自由になったとしても、男の瞳に映った私もまた、ノーと言うつもりなどないのだろう。



「おれがおまえに言ったことに、何一つ嘘はねェ」

「…………」

「……だがもし、ひとつだけ訂正するとしたら、」

「…………」

「おまえに男がいようと関係ねェ。そう言ったのは、間違いだ…」

「…………」

「何、あいつのことで心傷めてやがる……おまえはこのおれにだけ、泣けばいい……」

「…………」

「おまえが今さらなんと言おうと、」


あいつのところには、帰さねェ。



いつだってどこ吹く風で、どこか冷たくて、重い石のような殻で心を隠している。

そんな男が震える声を誤魔化すように、私の頭を乱暴に引き寄せた。

熱い肩口で息を塞がれもがくようにしがみつき、瞳を閉じる。

抱き合う。たったそれだけの温もりで満たされていく私は、なんて愚かな女だろう。

嘘をつき、大事な人を傷つけても、それでもまだ、貪り足りないと思ってしまう。


ああ、なんて欲深い。


いつまで追いかければ、この、醜い欲求は終わるのだろうか。



「おまえの全部をもらうかわりに、おまえの欲しいもの、何でもくれてやる」

「……そんなこと、言っていいの?」

「強欲な女だからな。ちょっとやそっとの代物じゃ満足しねェことはわかってる」


欲を言えば、欲しいものはたくさんあるし、したいことも尽きないけれど。

今はただ、この胸の苦しみを、過ちにはしたくない。




「あんたの声で、私を呼んで」



掻き乱した髪の毛の隙間から覗く耳たぶへ、愛の名を囁くように吐息が落ちた。



「ナミーー」



あなたはただひとつ、私を、自分だけのものにしたいと言う。


私はただひとつ、あなたの愛を感じていたいと言う。


まったく無秩序に、ひたすらに愚かで、美しい。




貪欲






この幸せに、少しだけ触れさせて。



END

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