過去拍手御礼novels2

□欲望の印に
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「ナーミーッ!!見ろよ!でっけェヘビ釣れ…ぐはッ!!」


何を血迷ったかルフィが活きの良い巨大ウツボを船首まで引っ張ってくるものだから、

踵蹴りで芝生甲板に追い返した。


「見せにこんでいいッ!!」

「ナミさん、パンツ、見せてもらってもよろしいですか?」

「そんなことわざわざ言いにこんでいいッ!!」

「おやおや!手厳しーッ!!」


ルフィに続いてブルックが芝生に吸い込まれていくのを見届けて、ため息をつく。


「オーイ小娘!パドル使うかァ?このままじゃ船が進まねェだろ!」

キッチンの前からこちらを見やるフランキーと、はためきもしないメインセールに目をやって、

「もう少し待ってみる」と叫んだところで、コトリとベンチに紅茶のセットが現れた。



「ったく、どいつもこいつも頼りきりだな……ナミさんに」


「サンジくん」


お茶にしましょう、レディ。

そうにこりと微笑んでベンチに座った彼につられ、やっと私も腰を落ち着けた。



「何か見えたかい?」



宝石を糸に加工したような金色は、真っ青な空とは不釣り合いであるのだが、

その輝きゆえに、他のどんなものをも押し退けて、人の心を惹きつける力を持っている。

青空に似合わなければ、当然、蒼い海とも同居し得ない特別な輝きは、

海で生きる人間の瞳を簡単に誘き寄せる、魔法の罠だ。

それなのに、人工的なほど均一に色素の抜けたその髪の毛は、地毛だという。


「……んー、なんにも。異常なーし」



ここは本当に海なのかと思うほど微動だにしない海面に、進まない船脚に、

「異常が無さすぎる」という異常すら感じてしまう。

じれったさを覚えているのは何も私だけではないようで、

船の中は現在浮き足だった状態だ。

まるで私と、芝生甲板で無関心にダンベルを振る無愛想な恋人みたいに

変化も面白みもない退屈な海。

それもこれも、気を揉んでいるのは自分だけだと思うと無性にバカらしくなって、自然と苦笑が漏れる。


「まるで広い海に船ごと取り残されちまったみてェだな」

「……怖いこと言わないで」

「ははっ、ごめんごめん」


見渡す限りの大海原から急に近くに意識を置いた途端、過剰なまでに鼓膜が研ぎ澄まされる。

長い手足を持て余しつつ胸ポケットから煙草の箱を探り当てるサンジくんの一動に、私の意識は集中する。


「まったく、どうなってんのかしら…」

「こうも波風立たねェと、逆に不気味だな…新世界だってのに」

「言えてる。このまま波も風も立たなくて、船の燃料も底を尽きて、次の島まで手漕ぎになったら、あんたたちよろしくね」

「お任せください、ナミさん」


ふーっと自分が吐き出した白い煙に見入る横顔は、己に心酔して嘆息する人みたいに大袈裟で、

だからこそ、絵になるほどに高貴で清廉だ。

もしかしたらサンジくんは、実はどこかの国の王子様で、

例えば私が毒りんごを食べてしまったり、継母にいじめられてしまったときのためにここにいるんじゃないのかなって、思ってみたりする。

実際のところ私がピンチのときに現れる彼は、したたる血も様になるほどいい男だと思うし、

どこぞの王子様なんかよりもよほど頼りになるのだが。



「いくら私でも、操るものがないんじゃお手上げよ。このままじゃ前に進まない…波でも風でもなんでもいいから、立ってくれないかしら」


「立たせてあげようか?波風」


「え……?」


「目、閉じて……」



唇が触れたのはついぞ一瞬の出来事で、

思ったよりも冷たいその温度に、本当に北風でも吹き抜けたのかと思うほど、

煙草の匂いと独特の男の香りだけを微かに残し、すぐさま消えた。



「………………」


「……おーおー、あの野郎すげェ殺気放ってきやがる……」


「………ちょっと、まって…………キス、したの?いま……」


指で挟んでいた煙草を一度口に戻そうと近づけて、思い改めたように揉み消したサンジくんは、

疑惑のそれの端をきれいに持ち上げた。


「はい」


「………なんで……?すぐそこに…ゾロがいるのよ…?」


「見えてねェよ。マストの影で……ただ、さっきからすげェ睨んでるけど」


「……急に……なんなの……」


振り返らなくても、ゾロの視線を感じる。

見えていないと言ってはいるが、実際のところどうなのか、微妙なところだ。

私がゾロと正式な恋人同士であることを知りながら、

なぜ突然、キスなんて。



「波風が立つようにさ。こんな無風じゃ、ナミさん物足りねェんじゃねェかと思って」


この、何もかもを見透かすようなすました瞳が、私は少し怖い。


「……人の女に手出しするんだ?紳士って」

「紳士が人の彼女にキスしちゃいけねェ法律なんてあるのかい?」

「法律どうこうの問題じゃないわよ」


とんでもないことをしておいて、その横顔は穏やかな表情を崩さずに余裕すら漂わせている。



「……そうだな、おれたちにはルールを守る義理もなけりゃ、掟に縛られる由縁もねェ。そもそもナミさんが道徳や世間の常識に囚われるような人間なら、ドクロのマークを高々と掲げた海賊船になんて乗ってねェはずだ」

「……だからって、何してもいいわけじゃ……」

「そんなに警戒しないで?別におれはマリモから君を奪おうってんじゃねェのさ」

「じゃ、じゃあなんのつもりよ……」


こちらを向いてにこりと笑う整然とした仮面の顔立ちは、

有無を言わせず自分の世界に引きずり込む魔力を放っている。


「おれはマリモみてェに君を縛り付けて所有するような小せェ男じゃないんですよ、ナミさん」


「………………」


「誰も彼も、この海の全てに愛されるあなたが、好きなんです」


「………………」


慈しむように目を細めて、雲をつかむようにそっと私の髪に触れた指先、

細い毛先に落ちた口付けから、じわじわと送り込まれる得体の知れない感情。


「君ほどに強く、美しい女性は、世界中のどこを探したって他にいない……賢さと優しさは賞賛に値する……」


「………………」


続いて絡め取った指先に、触れるだけの口付けを。


「……ルフィも、ウソップも、フランキーも、骨も、チョッパーも、ロビンちゃんも、ゾロも……」


「………………」


「みんながそんな君のことを愛してる。だから君も、その愛を惜しみなく彼らに付与してやればいい……」



もちろん、おれにも……



手の甲に落ちた唇の冷たさに、どうしてか、ほとばしるほどの彼の温度を感じた。





「敬愛しています、あなたを……」





目線だけで私の顔を見上げて見事この瞳を射抜いてみせたイカサマ紳士。

その仕草は王子様そのものなのに、その魔力は含み笑いのよく似合う魔法使いに匹敵する。



「あんたって……わかんない男……好きなのに、みんなに愛されればいいなんて……」

「他の野郎どもにも少しは分け与えねェと可哀想だろう?ナミさんという幸福を」

「考え方が、その辺の男とは違うのね」

「慈悲深くなきゃ、コックは務まらねェのさ」


人の醜さや狡さも知り、しかしその上に立って心を慈愛で満たしたとき、

それこそが誰よりも、何よりも、本当の純なのかもしれないと、サンジくんを見ていたら、そう思う。


「じゃあ何?私ってあんたたちの母親かなにか?」


「大切にしたいだけさ……だって君は、海にさえ愛された、この世の女神なんだから」


「女神…………」


おとぎ話の世界に誘うように手招きする、その先にあるのははたしてなんなのか…

私の好奇心をくすぐるイレギュラーな思考と言動。


「そしておれたちの、最愛の人だ」


いつのまにか、唇にキスをされたことに対する憤慨も戸惑いも消え去って、

頬に感じた風の気配に心地よささえ覚えてしまうのは、

既に私が時間を気にする兎を追って穴のなかに落ちてしまったからなのか。

もしかして、彼が私の傍に紅茶を置いた瞬間から、そこは不思議の入り口だったのかもしれない。




「追い風が、来るわ……」


「言っただろう?波風立てるって」


自慢げに歯を見せて愛嬌のある笑みをつくったサンジくんは、チラリ、後方に視線をやった。


「……そろそろ痺れを切らしてアイツもここに来る頃だ。嫉妬にかられて所有の印を刻みにね」

「…………」


嵐にならないうちに退散するよ。

そう言って立ち上がった彼を、思わず引き留めた。


「ま……待ちなさいよ…!」


私がこうして自分の服の裾を掴むことがわかっていたかのように、

サンジくんは落ち着いてこちらを振り返る。


「お知りおきください、ナミさん」


「………………」


作り物みたいな金色が、突風の前兆である微風に揺れる。

自然のどこにも存在しない柔らかく鮮やかなその色は、

他のどんなものをも押し退けて、私の心を惹きつける力がある。



「たとえ君がこの世で一番の愛を、おれじゃなく、アイツに抱いてるとしても……」


「………………」


「この世で一番に君を愛しているのはアイツじゃなく、おれです」



色素が薄いはずの瞳の中は天の色を思わせるほどに濃密で、不確かだ。



「……ほんと、わかんない男……」

「おれのことが知りたいのなら、いつでも教えて差し上げます」

「……その博愛の仮面の下には何が隠れているのかしら?」

「今夜、ひとりでキッチンに来てみたら、わかるかもしれねェよ?」



誰にも気づかれないようにね。



「………ちょっと待って……そんなの、」


青空にも、蒼い海にも不釣り合いなその色は、

夜の空と、夜の海には、よく映える。



「ナミさん、おれが君に抱いている気持ちはね……」


少し煙草の匂いの残った人差し指で、


私の心の中をかき混ぜるかのように、


唇、髪、指先、手の甲を順になぞりながら、


低い声が、呪文を唱えるように溢れ落ちる。



「愛情、賞賛、恋慕、尊敬、それから…………」



冷えた親指が、熱を持ち脈を踊らせるそこにたどり着き、血の流れを探るように押さえ込む。


焼けるような眼差しが一直線に刺さった後、



私の手首の、



トクトク音が鳴るところ、



深い深い、



口付けを、







欲望の印に








その唇から伝ったのは仮面の下の真っ赤な情熱。


見張り台に無風の恋人が姿を見せた瞬間、


口元をきれいに持ち上げた彼は確信の笑みを浮かべたまま入れ違いに踵を返した。


気づけば世界が軋むほどの力強い風が一陣、


金の糸とドクロのマークを揺らしていた。







END

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