過去拍手御礼novels2
□おかえりハニー
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言いたくて、言えなくなった言葉がある。
ほんの少し前までは、当たり前のように口にしていたその言葉。
君とおれの、心の交換のような合言葉だったのに。
その言葉を、愛しい人と交わし合うだけで、
誰だって、洋服の胸ポケットに花を挿したような、幸せな気持ちになることができる。
…………そんな、言葉を。
「…………あ、」
「…………あ、ナミさん……」
言いたくて、言えなくなったその言葉をぐっと飲み込むと、
タオルで手を拭いて、ぎこちなく笑みをつくった。
……少し、遅すぎやしませんか。そんなことを巡らせつつも、
当たり障りのないように、何か飲む?そう訊ねようとしたら、
ナミさんの後ろからぬっと人影が現れた。
「おいコック、酒」
「うっせェェマリモ!!ナミさんの後ろから現れんじゃねェ!酒なら飲んできただろ!誰が渡すか!」
「……なんでわかる」
「ナミさんの瞳が素敵にほろ酔ってらっしゃるからだッ!わかったらさっさと行け!しっしっ!」
「………………」
怪訝に眉をひそめたそいつは買い出してきたらしい荷物の中から酒をつかむと、気だるそうにダイニングを出ていった。
数秒して、ナミさんのサンダルがおずおずと床を踏む。
目も合わない短い沈黙の中に、おれたちふたりだけが取り残された。
「………あ、そうだサンジくん、街でジャムとか買ってきたのよ」
「ほんとかい?さすがナミさん気がきくなァ。ジャムはちょうど切らしてる」
「あとで領収書渡すからよろしくね」
「……ですよね」
なんとかそんな何気ない会話を交わしながら、買ってきた物資の整理をするナミさんのもとへ向かう。
テーブルに広げられるジャムやドライフルーツ、ココアなどをその後ろから眺めていると、
彼女の揺れる長い髪からふわり、いつもとは違う、鉄のような匂いがした。
「これが杏で、こっちがプルーン、それでこれが、」
「ナミさん……」
「…………なに?」
帰ってきてくれたことは、嬉しい。
マリモと一緒に外泊なんてされようものなら、おれはどうなるかわからない。
この船は、ナミさんと、おれと、クルーの家だから。
今日も我が家にこの人が存在しているという現実が、おれの心を宥めてくれる。
………………でも、
「……なに?どうし、……きゃっ!!?」
「…………ちょっとごめんよ」
ナミさんの身体を肩に抱える。ゴトリ、何かが床に落ちる音がした。
煙草をくわえたままだったことに気づき、大股でシンクに向かう。
動く度に、おれのものでも彼女のものでもない匂いがした。
「ちょ、……どこ行くのよ?」
「…………風呂」
「え?……なんで?」という微かな声を置き去りに、おれの革靴が床を踏む。
理由を答える余裕なんて、今はなかった。
ーー−−
「……そんなに汗くさかった?私」
「まさか。そもそもナミさんは汗もいい匂いですから」
「……………」
へらりと首を斜めにしてネクタイを引き抜いたおれから、ナミさんはふいと目を逸らした。
「……あ、ナミさん着替えどうしよっか。持ってこなかった……」
「………………」
「……そういやそっちの棚にバスローブがあったよな」
「………………」
「……ナミさん、聞いてる?」
「なんでサンジくんまで脱いでるの?」
Yシャツを脱いだところで、壁を見つめたままナミさんが呟いた。
規則的に息を吐く。そのリズムが胸を落ち着かせてくれるのは、喫煙者の癖らしい。
「……なんでって、おれも入るから」
「………………」
「まだ入ってなかったからさ」
「………………」
「ほら、ナミさんも脱ぎなよ」
「サンジくん……」
細身のブラウスにかけた手が、掴まれる。
もう一度、息を吐く。
そうして、目を逸らしたままの彼女に微笑みかけた。
「……恥ずかしくねェよ。何度も見られてるだろ…………おれに」
「そういう問題じゃないでしょう?」
「じゃあなに?…………別れたから?」
その言葉に、ナミさんははっとしたように顔を上げた。
もう一度、息を吐く。そうしなければ、いつものやさしい笑みをつくれそうになかった。
「………………」
「平気さ。悪いことしてるわけじゃねェ」
「……それでもやっぱりだめよ。だって、」
「なに?まさかもうマリモと付き合ってるとか言うのかい?」
「…………違う、けど…」
途端、ここ最近の鬱積したものが心なしか晴れて、心臓の音が柔らかくなった気がした。
その答えに心底安堵している自分に苦笑する。
よこしまな独占欲だって、神は許してくれるに違いない。
「さァほら、手開いて?おれが洗ってあげるから」
「だ、だめだってば!こんなの……」
「なんもしねェよ。洗うだけ」
「っ、待って、サンジくん、」
阻む手をあやすように払いのけ、服を脱がせる。
久しぶりに目にした白い肌に、わきまえもなく昂った。
自分も残りの服を脱ぎ捨てると、重い足取りの彼女を引きずるようにして浴室に連れ込んだ。
ーー−−
「………なにしてるのよ、さっきから」
「んー?おれの匂いをナミさんに擦り付けてるんです」
一通り頭や身体を洗い終えると、湯船の中でぐりぐりと後ろから頭をなすりつけるおれに、
ナミさんはもはや抵抗する気力もないのか、呆れたようにため息をついた。
「……そんなことしなくたって、同じシャンプーで洗ったんだから同じ匂いに決まって……」
言いかけて、しまったというように張った肩、
それを後ろから眺めていると、立ち込める湯気で目の前が少し霞んだ。
「……そっか、そうだね。同じ匂いだよね〜!へへ、幸せ……」
「……………バカ」
ほんとに、バカだ。本気で恋をする度に、女は強くなるけれど、男はだめだ、情けない。
「……ナミさん、きつくねェ?もっとおれに背中預けていいよ」
「……私もうあがるから」
「……………………」
………………待てよ。
立ち上がろうとした彼女の身体を引き戻し、胸の中にすっぽりおさめた。
行くな行くな行くな…
……ここに、いてくれ。
直接肌を合わせて密着しても、その背中がすごく遠かった。
「…………サンジくん…」
「…ちょっとちょっとナミさん、1万秒数えるまであがっちゃいけませんルールでしょ?」
「……どんなルールよ。なに考えてんの」
なに考えてるかって、そんなの愚問にも程がある。
細いその肩に顎が乗るほど近づくと、水の中に揺らめいた彼女の胸の膨らみが目に入る。
相手を本気で好きならば、劣情なんて嫌でもわく。
「……のぼせたら介抱してあげるからさ」
「……っ、ちょっと…その手はなによ」
「……いや、触りてェなァって……だめ?」
「なにもしないって言ったの忘れたの?」
「…………だってさナミさん……」
だってさナミさん、こういうのは、一度火がついたら止まれないんだよ。
ぎゅっと肘をしめて、おれの視線と手から胸を守るナミさんの、
無防備な耳を舌でなぞった。
「っ、やぁっ、」
「っ、ナミさん、その声反則…」
「……や、やめっ、だめっ」
緩んだ肘の下からふたつの胸に手を滑らせると、びくりと足を浮かす彼女の癖。
直に神経を揺さぶるような、甘い声。
久しぶり聞いたその声に、初めて彼女を抱いた日のことが頭を過った。
息もできないほどに幸せだった記憶の中のふたりが、息もできないほどに、おれの胸を苦しくさせた。
「……っ、どこ、行ってたの……?」
「さ、サンジくんっ、やめてったら……」
「マリモとどこ行ってたんだよ」
「………………」
「こんな遅くまで、何してた……?」
「………………」
「身体中からあいつの匂いさせて……そんなにベタベタしてたんだ?」
「……サンジくん……放して……」
湯船が冷たく感じるほどに、身体がカッと熱くたぎった。
「まさか…………あいつに抱かれた?」
煙草の煙を吐くように肺の息を全部外に出したって、心臓は嫌味に鳴っていた。
「……もし、そうだったら……なんだっていうのよ…」
「許さねェ」
「………………」
「……殺しちまうかも」
「………………」
誰を…とは、口にしなかった。あるいは自分にもわからなかったのかもしれない。
彼女もそれを聞いてはこなかった。もしかすると、彼女にはその答えがわかっていたのかもしれない。
知っている。こんなこと、言える立場なんかじゃない。
だっておれは、恋人でもなんでもない。
爪先に埃がかすったようなささいな衝突で、一度はその位置を、手放した。
冷静になった後で、何度も何度も後悔した。
どうしてあのとき、別れを告げた彼女に食い下がらなかったのか。
もしかして彼女だってそれを、待っていたかもしれないのに。
どんな彼女でも、いつだって両手を広げて迎え入れる覚悟が、おれにはあったはずなのに。
言いたくて、言えなくなった言葉がある。
彼女にとっておれという存在が、帰る場所ではなくなってしまったその時から。
……………今でもまだ、
こんなにも好きなのに。
「………………淋しい…」
「………………」
「ナミさんが、おれから離れていって……そんで、他の男と仲良くしてんのなんて、見たくねェ…」
「………………」
「悔しくて、淋しくて、……おかしくなっちまう…」
「………………」
「頼むから………他の男に近づかねェでくれ」
「そんなの、……勝手……」
わかってる。しつこく口説き落として彼女の時間も身体も心も自由も拘束して、
それでいて、取るに足らないことで、あっさりと手放した。
なのに別れた後で、他の男に嫉妬して、中途半端にずるずる引きずって、しまいには女々しくこんなことを言う。
わかってる。わかってるけど、
「…………君が好きなんだよ」
「…………っ、」
「誰にも渡したくねェ」
細く頼りない肩から顔を上げると、ぽたりとどこからか滴が垂れた。
顔をこちらに向かせて唇を近づけると、うっすらと赤い瞳が一度おれを見て、逸らされた。
「……いっ、今さら、何よ……」
「………………」
「付き合ってもない人と……できない。こんなこと」
「………………」
「サンジくんは、私のこと、いらないって……そう思ったんでしょ?」
「思ってねェよ!そんなこと、一度も思ったことなんてねェ!」
「でもっ、簡単に手放したじゃないっ」
「それは……意地、はってた……おればっかり好きみてェで、不公平だとか思っちまって……」
「………………」
「けど、それでいいんだよ…おれが君を、好きなんだから。だって実際そうなんだ。好きで好きでどうしようもねェんだよ、別れてからだって………」
「………………」
「別れてからだってずっと……ナミさんのことしか頭にねェ」
「………………」
「もし、…ほんの少しでも、君の気持ちがおれに向いてるなら……」
「………………」
戸惑いがちにおれを振り向いた彼女を、これからもずっと守ってあげたくて。
ゆっくりと目が合うと、その瞼の上にキスをした。
「戻っておいで……おれのところに」
くしゃり、顔を歪ませて一度俯いた彼女は、おれと向き合うように身体を反転させた。
「…………バッカじゃないっ、」
「………………うん」
「自分ばっかりが淋しかったとでも…思ってるの?」
「………ううん……ごめん…」
「…………サンジくん…」
「……はい、ナミさん…」
目元からぽたりと水滴を落とした後、彼女の唇が、溶けるように小さく開いた。
「……………た、……ただい、ま……」
「…………っ、」
言いたくて、言えなくなった言葉がある。
おれという存在が、彼女にとって帰る場所ではなくなった、そのときから。
互いの居場所はここなのだと確かめ合うような、心の交換。
胸ポケットに花が咲く、幸せの合言葉。
「ただいまっ……サンジくん……」
この胸に彼女が帰ってきた瞬間、
ちゃぷりと大袈裟に揺れた水の中、ふたりの心音の、重なる音がした。
おかえりハニー
ここが君の帰る場所。
「……だから、ゾロとはなんにもないってば」
「ほ、ホントに?ホントにホント?」
「ホントよ。何かあったら帰ってこないわよ。バカね」
「……じゃ、じゃあなんであんなマリモの匂いしてたのさ」
「……あー、それはね、歩くの面倒でおぶってもらったのよ」
「………………」
「さ、あがるわよ。ほんとにのぼせちゃうわ」
「……だめ。いろいろ限界。とりあえずここで愛し合おうか、プリンセス」
「……!ちょっ…!?」
END