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□生は闘い
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悪いことをしたって、胸のどこも傷まなかった。


神様にさえ見放された私には、すがるものなどなにもない。


信じるものは、大好きだったあの人の言葉だけ。


生き抜けば、必ず…………








「生は闘い」








小さい頃、悪戯をする度に決まってこう叱られた。


「悪いことをしたらバチがあたるんだからね、ナミ!」


世の中そういうふうにできてんの。


……それが本当だったなら、


強い瞳のあの人が、私たちの前からいなくなることがあっただろうか。


人に誉められるような生き方に、いったいどれほどの意味があるのだろう。


同じバチがあたるなら、私はイイ子でなんていたくない。


その存在を、周りに認められることばかり気にする人生は、不幸でしょう。


自分の大切なもの、たったひとつ守ることができたなら…………



たとえ悪魔に手を引かれようと、かまわない。







「ほらよ、おまえの好きな金だ」


ひらひらと、嫌な匂いのするそれを投げつけて、目の前の男が口だけをつりあげた。

遠ざけたくて、離れられない。

いつだって私をがんじがらめにしてきたそれは、何よりも軽く、そして何よりも重たい。



「……ずいぶん羽振りがイイのねお兄さん。だけど私、あんたの金には興味ないわ。急いでるの。他をあたってくれるかしら」

「オイオイ惚けてくれんじゃねェか。おれのこの顔、忘れたとは言わせねェぜ?あァ?」

「さァ…………誰だっけ?」


つれない態度で肩をすくめると、男は大きく舌を打って私を壁に押さえつけた。

カサリ、足の裏で紙切れが泣いている。



「おれは今日までおまえを忘れた日なんてなかった……ナミ」

「こらだけのキュート美人を忘れる方がどうかしてるってもんよ」

「あァそうだなァ、おまえにゃ随分と世話んなった。その身体で散々奉仕してくれたもんなァ……最高だったぜ?思い出すだけで勃っちまう」

「あら、私はあんたを思い出したって一滴も濡れないわ。残念ね」


クリマタクトに伸ばそうとした腕が、有無を言わせぬ力で壁に貼りつけられる。

どこか恍惚とした表情で、男は私の顔をしげしげと眺めた。


「変わってねェなァ、そういう生意気なところはよ。おれァ強気な女は好きさ……いっそ殺してやりたくなるほどになァ……。」

「……そういう口説き文句、聞き飽きてるのよねー」

「違ェねェ…その身体でよ、何人の男騙してきた?おまえが有り金持っておれの前から姿を消した日にゃ、どうして一度きりで海に棄てなかったのかと自分を恨んだもんだ。相手が普通の女なら、そうしてた」

「あんなはした金のこといつまでも根に持ってるなんて、さすがよねぇ。自分の金でもないくせに。…海賊に使われるくらいなら、ドブに棄てた方がマシなのよ」

「今じゃおまえもその海賊だろうが。どうだ?今の船長サンはよ。ちゃァんと悦ばせてもらってるか?」

「……あんたたちみたいな低俗と、ルフィを一緒にしないで。人間の格が違うわ」

「なに純情ぶってやがる。ソイツのことも、搾り取るだけ搾り取って、用が済んだらあっけなく捨てんだろォ?」

「おあいにく。金離れのいいとこ以外に使い道のないあんたと違って、たとえ借金まみれでも、私はあいつを捨てたりしないわ?」


睨み付けた私の顔を、見覚えのある手つきでするりと撫でると、

まるでオモチャを見つけたかのように、男はくくっと喉を鳴らした。


「妬けるじゃねェか……あんなに面倒みてやったおれよりも、その男がいいのかよ……ナミ」

「バカね。そんなんだから騙されんのよ。女はね、尽くされるより、尽くす方が幸せなの。……おわかり?」

「へェ……尻軽女も腰を落ち着けたってわけか?おまえがどれほどの性悪か、その男とお仲間さんは知ってんのかよ…?」


レンガの硬い温もりから、嫌な予感が背中に走る。

どんなに人の道に背いても、どんなに周りから蔑まれても、

それでも平気だったのは、失うものなどなかったから。

恥や体裁やプライドを捨てたって、守りたいものひとつ、守れればよかったから。


だけど、幸せを手に入れるほど、守りたいものが増えるほど、


失う怖さが、信じる心を食い潰す。



「………そんなこと……あいつらは私が魔女なのも、泥棒なのも、知ってるわ?」

「身体売って稼いでた、娼婦まがいの女だってこともか?」

「………………」

「そんなに信用してんなら、全て教えてやれよ、……おまえの過去」


耳元に吐息がかかるだけで、その感覚がよみがえる。

過去、過ぎ去った昔の話、遠い記憶の断片、なのに、心の中に押し込めた暗いモノはいつまでも……


…………消えてくれない。




「…………っ、放して!フラれたからって逆恨みはやめてよね!これ以上あんたと話したくなんてないわ!」

「おれが教えてやってもいいぜ?そいつらも、おまえのことなら何でも知りてェに決まってるもんなァ?」


とても海賊には見えない、この男。

ウェーブのかかったダークグレーの髪からは、大きな耳が生えて金色のピアスをいくつも揺らす。

前髪に隠れそうなイーグルの瞳は勲章のように涼やかに、力強く相手を射る。

顎と指の細さが、冷気を纏ったアナーキーな雰囲気と比例する。

裏のビジネスを器用にこなす、情報収集家。金を稼ぐのがうまかった。話のわかる淡白な男で、深入りしない。カモにはもってこいだった。

だけど、部下の中に魚人がいるとわかってとっとと手を切った。素性がバレたら地獄の果てまで網を張られかねないから。



「……ふざけた冗談はやめなさいよ…………レイス……」


「くくっ、……なァんだちゃんと覚えてんじゃねェかよ……おれが恋しかったんだろ?なァ…?」


両耳の付け根を掴んで薄い唇をこめかみに埋める癖が、変わっていない。

皺ひとつないその顔で、微笑みを崩さないカラクリ人形のように、感情もなく愛を囁くのだ。


「っ、触んないで!」

「なんだよ、つれねェなァ……男でもできたか?」

「真面目に答えなさいよ、あんた……何が目的なのよっ!」

「そういや麦わらの海賊船は今朝岩場の岬に着船したらしいなァ……」

「………………」

「おれァ挨拶でもした方がいいんじゃねェか?おまえの……昔の恩人としてよ……」


散々援助してやったんだから。そう笑って股の外側を撫で上げた。

ドクドクと、心拍が激しくなる。

蹴り上げて逃げ出す勇気がないのも、

勝手にすればと啖呵を切ることができないのも、


昔と違って今の私には、絶対に手放したくない場所があるからだ。



「……あいつらには……言わないで……」


やけに胸囲の余ったシャツを掴むと、男がうっすらと目を細めた。


「……心配すんなナミ……捨てられたら、おれの女にしてやるよ」

「……あんたの女になるくらいなら、海軍に捕まった方がマシよ」

「くくっ、そんなに嫌か?いいぜ?今すぐ行って、おれも頭下げてやる。“汚れまくってるが、どうか見捨てねェでくれ”ってなァ?」

「………………」

「おまえの男は船長か?あー…いや、タイプが違うな……どいつだ?教えとけ」

「……………言うこと聞くから……お願い……」



ピタリと動きを止めた男は、ゆっくり私を見下ろして、片頬に笑みをつくった。





「ついて来い」




悪魔の手先のような紙切れが、足の裏で、また泣いた。
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