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□敗者の微笑み
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女の真っ赤な唇が、弧を張ったまま耳元に近づいた。






「敗者の微笑み」






膝の上に添えられた5本の指の先に視線を落とすと、そこにも行儀よく同じ色が塗られている。


「これからどうするの?船長さん」

「どうするも、おれは船に帰る」

「それじゃあ私も連れてってよ」

「よそ者なんざ上げるわけねェだろ」

「あら、盃を交わしたんだもの。海賊のルールじゃ私たち、もう他人じゃないわ?」

「陸の女が海賊を語るな。拷問部屋でよけりゃあ招いてやろうか?」

「やだ、こわーい!でも、そういうのもイけるわよ?私」


臆する様子もなくケタケタと笑う女を一瞥して、グラスの酒を飲み干した。

カウンターに金を放ると、愛刀を片手に席を立つ。


「さっさと別の男でも捕まえろ」

「なァんだつまんない。あんたなら安くしとくのに」

「安い女に興味はねェ」

「送っていってくれないの?」

「知るか。勝手に帰れ。じゃあな」


ふふっ。と青い瞳を細めて綺麗な笑みをこぼした女は、

誘いにも乗らず店の開き戸を押し開けたおれの背に「またね」という言葉を貼りつけた。



ーー−


「船長」

「あ!船長ォ!お帰りなさ〜い!」

「……うるせェ。変わりはねェか」


船に戻ると見張りのシャチと甲板で酒を飲んでいたペンギンがすぐさま駆け寄ってきた。

何か面倒事でも起こったかと眉をひそめたおれに、ペンギンはひどく穏やかな声で告げた。


「ナミが来ていますよ」


船長室に通してあります。そう言ってふわりと笑うと、ペンギンは質素な酒でできあがっているシャチのもとに戻っていった。

コートを翻して、甲板を後にする。

思いがけず、ふいな知らせだった。気まぐれなおれの猫は、やにわにこの心を騒ぎ立てる。そういうことなら、街で女に絡まれてだらだらと過ごすこともなかっただろうに。

船の一番奥まったところにある自分の部屋。そこに向かう足取りが、クルーの寝静まった夜の暗い廊下に切れ目なく響いている。

寸分も無駄のない動作で戸を開けると、無機質な部屋の風景に浮き上がる鮮やかなオレンジが目に飛び込んだ。


「……あ、ロー!おかえり!」


ベッドの上で勝手に本を読んでくつろいでいたナミはおれと目が合うと、驚いたような顔を一瞬にして笑顔に変えた。

部屋の扉を閉めると、さっきとは違うゆっくりした動作で帽子や上着を脱ぎ、刀を壁に立て掛ける。

そのままベッドに行こうか躊躇して、その脇の棚に向かい、中に並べてある酒をみつくろいながら素っ気なく言った。


「……ったく、自分の部屋みてェにくつろぎやがって…」

「いいじゃない。ペンギンが好きにつかっていいって言ったの」

「あの野郎……ずいぶん偉くなったじゃねェか…」

「あ、そっちのシャワーもつかわせてもらって、服も勝手に借りたから。いいわね、シャワーつきの部屋って。私もフランキーに頼もうかしら」


本を棚に戻しているナミの姿を、デスクの丸椅子に座ってバーボンのボトルの栓を抜きながら眺めると、

確かに、見覚えのある男物のTシャツに身を包んでいる。

ワンピースのように一枚で着ているのはサイズが大きいからか、それとも誘っているのか。

十中八九深い考えもなしに男心を弄んでいるに違いはないが、麦わら屋の船でもこんなに無防備なのかと思うと、バーボンをグラスに注ぐはずの手が無意識に止まった。


真っ黒な無地の布地から生えた脚が、ぞっとするほど白い。


「……そんなにおれが恋しいなら、次から麦わら屋の船に出向いてやってもいいが?」

「なっ!ち、違うから!たまたま同じ島に居合わせたから、顔見に来ただけよ!」

「くくっ、嘘つけ。我慢できなくなったんじゃねェのか?逢いたくて」

「〜っ!もうっ!違うったら!!」


目元を赤くして布団に潜り込もうとしているナミに、瓶もグラスも置いて近づいた。

ふいっとそっぽを向いた顔を片手で覆っておれの方に向かせると、

強気なのにどこか切ない視線とぶつかって、ふたり、一時の無言に包まれる。


「………………違うのか…?」


押さえのきいた声で問いかけると、ナミは瞳にゆらゆらと膜を張って小さな唇を動かした。


「……………違わ…ないけど……」


ローは?そう溢した唇を、答えの代わりにキスでふさいだ。

硬いパイプベッドがギシリと鳴る。華奢な身体の下に両手を回して腕の中にぴったりと閉じ込める。

柔らかな匂いのする首筋に顔を埋めて、か細い呼吸のリズムと心地好い温度をしばしこの身に感じ、ようやくその存在を実感した。


「………速ェな、心臓…」

「っ、そ、それはローの方でしょ!?」

「バカ言え、おまえだ。…緊張してんのか?かわいいとこあんじゃねェか」

「なっ、……」


開いた口の中にすかさず舌を捩じ込むと、ナミのくぐもった声が鼻から抜けた。


…………我慢できねェのは、おれの方か。



「……オイ、先に挿れるぞ」


Tシャツを押し上げて綺麗な線を描く腰をまさぐり、そのまま下に移動させた手を下着にかける。

早く、挿れたい。そういうことを商売にしている街の娼婦にさえ微塵も起きなかった感情が目の前の女にはどうしてか、いとも簡単に沸き起こる。

男がケダモノなのは、脳と身体の中で愛情と情欲が容易く結びつき、決して切り離れてはくれないからだろう。


「…やぁっ、ちょっと、待って…!」

「却下だ」

「なっ…!や、やだ、ちょっと!」

「もう濡れてんだろうが。黙って脱がされてろ」

「そ、………そうじゃなくて……」

「あ…?」


脚の付け根が見えるほどずり下がった下着をおれの手の上から引き止めて、ナミは小さな声で呟いた。


「………………もう一度、キスして……」


「…………っ、」


本当に、なかなかいじらしいことを言ってくれる。

健気な瞳でそうせがまれて、無下にできる男がいるなら見てみたい。こういった類いのわがままなら、歓迎だ。


「んっ、……んんッ」


深い角度で噛みつくように唇を合わせ、吸い上げる。「キス」と言うと聞こえはいいが、肉を食いちぎらないだけで、実際は補食に近い。

互いの衣服のこすれる音と、粘性を持った水音が、性的欲求の宿る頭のどこかを激しく叩く。

それに応えるように、服の中に潜り込ませた手が滑らかな双丘を撫でていく。

上には下着を身につけておらず、ダイレクトに指先に伝わった瑞々しい絹の感触が、さらにおれの欲を煽り立てた。


喰いたい、飲みこみたい、味わいたい、……骨の髄の、その奥まで。


…………欠片も残さず。



「……はっ、これで、満足か……?」

「………………」

「……オイ、もう挿れるぞ」

「…………ロー…」

「……………なんだ…」


はやる心とは裏腹に、下着にかけたおれの手を再びナミの手が掴んだ。

もう待てない。軽く苛立ちを込めて顔を上げると、探るような冷静な瞳がおれを見ていた。



「あんた、………どこ行ってたの?」

「…………あ?」

「…………いつもと、違う匂いがするわよ」


思わず言葉につまるような切り込みを入れて、ナミはさっきまでの甘い瞳を疑いの眼に変えた。

女という生き物は、どうしてこうも鼻が利くのだろうか。別にやましいことはないのだから、隠す必要もないのだが。

頭と要領のいい女は、男を悪役にするのが途方もなく得意で厄介だ。


「……ブランデーだろ。酒場にいた」

「酒場……?ひとりで?」

「ああ」

「…………ふーん…」


多少の嘘はご愛嬌。世の中には知らないほうが上手くいくことだってある。

第一、おれがどこで何をしていたのかこいつには知る術もないのだから、これ以上話したって意味がない。

もっともおれは、咎められるようなことは何もしていない。



「ナミ………」


もういいか?いい加減挿れさせろ。語感にそういう含みを持たせて掴んでいた下着を引き下ろそうとすると、 ナミの手がさっきよりも強くそれを阻止した。


「……ごめん、ロー……今日はなんか……する気分じゃないの」

「は、…………」


呆気にとられて固まったおれの手を払いのけ衣服の乱れを整えると、ナミは何事もなかったかのように枕を引き寄せた。


「おやすみ、ロー」

「…………………」


いよいよ壁の方を向いて寝る体勢に入ったナミの横に、眉間に皺を寄せたおれが燃料切れのエンジンみたいに空騒ぎをしている。

こうなると、ナミをその気にさせるのは不可能に等しい。強引に犯すのは造作もないが、こじれるのは御免だ。

だがせめて、おさまりのきかなくなった欲だけでもどうにかしたい。

口でも、手でも、なんでもいいからナミの意思で愛して欲しい。

天下も恐怖するこのおれが、情けなくて、そんなことを口にできるわけもなく、

向こうを向いているその背中を後ろから包んで、やわやわと胸に手を這わせ熱い塊を擦り付け主張する。

しかし完全に無視を決め込んだその背中に業を煮やしてベッドから出ると、ますます情けない気持ちになってこれ見よがしに舌打ちした。

シャワー室に入ってもおさまらないそれをひとりで慰める気にも到底なれず、冷たい水をかぶってイラつきながら部屋に戻る。

さっきと同じ体勢でうなじを晒しているナミに一瞥くれて、目についた出しっぱなしのバーボンをグラスに注いだ。


結局、朝まで一度もベッドに戻ることはなかった。
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