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□後には一歩も戻れない
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視界の端や頭の隅に、気がつくといつもいた。
笑った顔も怒った顔も、どんな表情だって、思い浮かべれば決まっておれの胸を締めつける。
決して思い通りにならない気まぐれ女は、まるで空の色を変えるように、おれの気分を操った。
どうしてそんなことができるのか、腑に落ちたときにはもう既に……
「後には一歩も戻れない」
「うほーー!すんげェ人だなー!」
「ちょっとルフィ!忘れないでよ!?絶対に騒ぎは起こさないこと!わかった!?」
「おう!ウソップ行こうぜー!」と、返り見もせずに赤い背中が陸へ飛び出す。
ホントにわかってるのかしら。という呟きを漏らしてハンドレールにもたれる女。
狭い肩幅から滑り落ちてしまいそうなニットのシルエットを、上から辿る。
身体の線を浮き彫りにした白いワンピース。腕を回したくなる腰の細さから、丸みを帯びて誘う尻の形。
真っ直ぐ伸びた小鹿のような脚は、膝の上からチラリと出ている太ももが目を惹き付ける。
マストにもたれ、自分と彼女以外の存在を遮断するように瞳を細める。
すると、おれの脳内で女の身につけている服の一枚一枚が、するすると剥かれていく。
慣れた手順で裸にした滑らかな背に、自らの手をそっと伸ばそうとした、そのとき。
「ナミさ〜〜んっ!ナミさんのエスコートはこのサンジめがいたします!さぁ姫、一緒にデートへ参りましょう!」
妄想を遮って、邪魔な男がその肩を抱いた。
「あ、でも私……」
チラリ、今の今まで頭の中でどんな姿にされていたかも知らず、ナミはおれの顔を盗み見た。
酒を選ぶという口実のもと、稀ながらふたり、島に降りることがある。
今回たどり着いたこの島は、ちょうどそのタイミングだった。
「………行きたきゃ行けよ。酒なんて、おれはあればなんでもいいしな」
そうは言いつつ、安い誘いなんて断って、迷わずおれを選んでほしいのだ。
荷物持ちだとかいう大義名分で、コックとはいつも出掛けているのだから。
別に、ふたりで酒を買いにいくだけで、何がどうなるとは思わない。
でも、日常にはない時間の共有に、淡い期待をしたってバチが当たるわけじゃない。
そもそもおれの目の届かぬ場所で他の男と過ごすなど、落ち着いて刀さえ振れやしない。
けれども現実は、そううまくいかないもの。
「ちょっと、人任せにする気!?ほとんどあんたが飲む酒よ!?」
「あ!?そりゃてめェだろうが!」
「か弱い女の子に押し付けるなんてサイテー!」
「いつも自分の好きなもん選んで酒持ちだけ押し付けてんのはどっちだ!」
「……あっそぉ。じゃあいいわよ。サンジくんにお願いするから」
「お願いされます!ナミすわん!」
お、オイ……
ちょっと待て。心の声を代弁するように、情けなく伸ばされるのは錆び付いた自分の手だけで、
遠ざかるふたりを振り向かせる言葉も、引き止める言葉も持ってはいなかった。
くそっ、せっかく…
ふたりきりになれるチャンスだったのに。なんて、女々しいことを考える自分が嫌で舌打ちする。
おれとあいつがせめぎ合い、葛藤してきた時間はあまりに長く、濃密だった。
今さら素直になんて、なれるかよ……
「置いてきぼりね……」
「……あ?」
「今のあなたよ」
いつの間にか傍にいた女が、陸に目をやったままポツリと口にした。
凛と佇む姿はまるで、知性を持った一本の樹木のようだ。
「……誰が、」
「ちょうどよかった。付き合ってくれる人を探していたの」
来てちょうだい。それだけ言っておれの返事も聞かず歩き出したロビンに、いつもながら唖然とさせられる。
少し迷って立ち上がると、黒髪の揺れる背中に続いた。
ーー−
「こんなもん、どこに隠してやがった?」
「隠してなんていないわ?いつもそこに並べてあるのよ?ほら」
指を差された女部屋の奥のバーに、見慣れないラベルのワインが並べられている。
普段女部屋に立ち入ることがないのだから、目にしなくて当然だ。
「……つーか、勝手に入っていいのかよ」
「勝手もなにも、私の部屋よ」
「いや、……」
おまえじゃなくて、おれのことだよ。そう思いつつ促されたカウンター席から、自然と部屋の中を見渡した。
ふたつあるベッドのうち片方には見覚えのある服が何着か散らばっていて、そちらがナミのものとわかる。
わかったからといって、何というわけでもないのだが。
「いつもと同じことをしているはずなのに、ひとりで船番というだけでとても退屈に感じるの」
普段があまりにも賑やかでしょう?そう言ったロビンから、液体の注がれたワイングラスを受け取った。
こうして間近で見ると腕や脚なんて不思議なくらい長く、漆黒の髪は雪のように白くなった頬によく映える。
目鼻立ちもはっきりしていて、身に纏っているエキゾチックな雰囲気は、花から生まれでもしたのかというほど芳しい。
女と言えばナミしか意識してこなかったが、今隣にいるのは間違いなくイイ女の部類に入るのだろう。
「だからってなァ、昼間からこんな高ェ酒飲んで、あいつに文句言われんじゃねェのか?」
「バレなければ平気よ。だからこれは、あなたと私だけの……」
秘密。
妖しい瞳とかち合って、一瞬吸い込まれそうになる。
しゃしゃり出るようなタイプではないからこそ、ふたりきりになると、強く感じる存在感。
「……バレても知らねェからな」
「今日のあの子の服、どうだった?」
唐突に話を変えたロビンに再び唖然として、あの子とかいう人物について考えた。
すぐにひとりの女が思い浮かんだが、誤魔化すようにワインを舐めるとカウンターに背を向けた。
「……どの子だ?」
「ナミよ。朝から何着も試着して、やっと決めたワンピースなの。ちゃんと褒めてあげたのかしら?」
「……なんでおれが…」
「あなたのために選んだものなのに?」
「は?」
「ふたりで出かける約束をしていたのでしょう?ならばあなたに見て欲しくて選んだんじゃなくて?」
「別に、約束してたわけじゃ…」
「今頃サンジが、“地上に舞い降りた天使だ”とでも褒め称えているのでしょうね」
「………………」
喧嘩でも売ってんのか?
横顔の女はおれの視線をものともせず、血のような色のワインをうっとりと眺めている。
かわいいとか、綺麗だとか、そんなことは関係ない。
どんな服を着ていようが、中身があの女であるのなら。
頭の中で脱がせて脱がせて脱がせて、ひとりで吐き出す度に、虚しくなる。
そうしてでもおさえこむしかない。
誰にも言えない、自分勝手な欲望を。
「いくら願っても、相手はちっとも自分のことを見てはくれない……」
「………………」
「みんな同じよ……」
哀れみか、諦めか、
意味深な言葉を呟くと、ロビンはグラスをテーブルに放置しおれの足の間に身体を滑り込ませた。
見上げてくる瞳に、挑発の色。
「…………なんの真似だ」
「あの子が手に入らなくて、やきもきしているのでしょう?」
「………………」
「……慰めてあげたいのよ」
腿の上を、しなやかな指がするりと這った。
ズクリと腰が浮き、理性が揺れる。
首筋を掠めた吐息に瞼を閉じると、さっきの妄想の続きが頭に浮かんだ。
オレンジ色の髪、聖書に出てくるイヴのように美しい身体の線。
おれはその女の背に手を伸ばし、
力の限りで抱き締めるーー。
……あァもしかして、相当溜まってんのか、おれは。そう冷静になって瞼を上げる。
「……やめろ。何考えてるか知らねェが、こんな真っ昼間からそういう気はねェ」
「夜ならいいのかしら?」
「そういう問題じゃねェな。おれは、仲間には手ェ出さねェ」
「嘘つきね」
「あ?」
胸の傷をつつく指先が、心臓に爪痕をつけていく。
「もしも誘ってきたのがあの子だったら、我慢なんてできないんじゃないかしら……?」
掴んだ手首を、軋むほど握りしめた。
図星をつかれて頭にかっと血をのぼらせる。
……仕方がないだろう。
そうなればいい、そうならないか、そうしたい……
ずっと胸に棲みついて染みとなった想いは、今さら覆ったりしないのだから。
「……てめェ、何企んでやがる…」
「なにも?そんなに怖い顔をしなくても平気よ。あの子に言うつもりなんてないわ?」
「………………」
しばし穏やかな瞳と睨み合っても、何かを悟ることが叶わなかった。
目の前の身体を押し退け、服で埋められたナミのベッドの前を通りすぎる。
「……置いてきぼりね。私たち…」
ポツリと聞こえた呟きに、ドアノブにかけた手が一瞬止まる。
けれども、外に出る勢いに任せ、カチャリと音が鳴るまで扉を引いた。