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□可愛いげのない女
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遠くを見るような眼差しで、自分の手のひらを眺めていることがあった。
血と泥と汗に汚れたそれの、何を見ようとしているのか、訊ねたことはない。
男の手に触れるのは傷の手当てをするときだけで、いつもは文句と命令ばかり溢す口も、包帯を巻かれる間はすっと閉じる。
あれから1ヵ月が経ち、3ヵ月が経ち、1年が経った今でも、私はこの古城を離れることをしなかった。
朝につけ晩につけ行われる修行とやらに臨む表情は、鬼気迫る。
無心に強さを求めながらも、ひとたび我にかえればその心は海を越えた遥か彼方に向かっていった。私を置いてだ。
あァ、なんともカワイくない男。
「だ〜か〜ら〜〜っ!やめろって言ってんだろ!」
「4997、4998、4999、…」
「おい聞いてんのかてめぇ!」
5000…と呟くと、床についていた手を天井に向け、男はどうとばかりに転がった。
「さっき怪我負ったばっかで筋トレ始めるバカがどこにいんだ!てめぇ本当にバカか!?」
「………………」
「誰が手当てしてやってると思ってんだ!少しは感謝して、私の言うことを聞けーっ!」
「…………水」
「命令するんじゃねぇぇっ!!」
可愛いぬいぐるみのひとつでもあれば、私の心は癒えるのかもしれない。
何もないこの島では、ことさら暇をもてあます。仕方がないから、この人使いの荒い男の相手をしてやっている。
ったくもうしょうがねぇなー。そう呟く私を横目に、男は傍らのベッドへとよじ上る。
「面倒みてやったかわりにおまえは明日、私のためにあたたかいココアをいれるんだ。わかったか?」
「覚えてたらな」
「その顔ぜってー覚えてねぇだろ!なんだその棒読み!」
「飲みたきゃ自分でいれろ」
「その台詞そっくりそのまま返してやる!え〜〜ん!おまえなんか地獄におちて死んじまえーっ!」
ふわり、上でゆらゆら揺れる私を、まるでうるさい虫でも見るような目で見上げ、男ははぁとため息を溢した。
「蚊取り線香」
「私は蚊じゃねぇぇ!!」
うるせェ、寝る。
こんなに甲斐甲斐しく世話をしてやっているのに、男はつれなく視界から私を消す。
そんな態度にも慣れたもので、薄暗い窓の外をうっとり眺め、思い描く限りの願望を誰にともなく口にする。
「こーんな物騒で無愛想なやつじゃなくて、どうせならふわふわでもこもこな、カワイイやつが飛んできてくれればよかったのにな」
「……チョッパーなら、てめェにゃなつかねェ」
「はぁ?誰だそいつは」
「なんだ、知らねェのか」
「そういやアブサロムのやつは花嫁にしたいほどカワイイ女がいると、わざわざ連れ去ってたみてぇだな?おまえの船の、」
ナミとかいう女。
「………………」
この名前に、この男が反応するのを知っている。一度閉じると開かずの扉のように開かなくなる瞼を開く、魔法のことばだ。
「たしかにあの変態男が好きそうな若い女だったが、あいつ、城のお宝奪って逃げようとしたらしいじゃねぇか。どこがカワイイんだ。カワイくねぇ」
「あァ、確かに可愛いってタマじゃねェな、もともと」
男の口元が、いやに持ち上がる。どんな話題にも興味を示さないその瞳が、爛々と色を灯している。
宙に浮いたまま動きを止めると、ふたつにまとめた長い髪が肩に落ちる。
今生きていることが奇跡なくせして、飽きもせず過去や未来に思いを馳せる。私を、ひとりにして。
「……なぁんだてめぇみてぇな単純な男、あーいう女にホイホイたぶらかされてるのかと思ったが?」
「…………はっ、誰が」
「てめぇのことだから、気づいてねぇだけで、とっくに手玉にとられてるかもしれねぇな」
「………………」
心当たりでもあるのか、鋭い目付きが細くなり、右に左に視線がさ迷う。
呆れ返ってじとりと見下ろす先で、男はチッ、と舌打ちした。
「ふーーん、ま、私には理解できねぇな。あの女にはフリルもリボンもヒラヒラも似合わねぇ」
「まァ確かに、てめェの方が幾分可愛げがあると思うぜ?」
「はっ、…はぁ?!なに言ってやがんだ!気持ち悪ぃー!頭わいたかてめェ!?」
「あいつは……」
あの女は、そう言い直して、男はいつものように右の手のひらをじっと見つめた。
「あの女は、人使いは荒いくせして労いの言葉は知らねェし、こっちの言うことにゃ耳を貸そうともしねェ」
「……てめぇよくも人に言えるな。自分のことは棚にあげやがって」
「男はなんでも自分の言う通りになると思ってる。コックのやつが甘やかすから尚更調子に乗りやがる」
「あの変な眉毛の男か。あいつはなんの病気だ?」
「何かにつけて貸しひとつだの借金だのうるせェし、あのがめつさはもはや女じゃねェ」
「アブサロムのやつも、そんなのを嫁にしようだなんて…やっぱりあいつも女を見る目がねぇってことか」
ホロホロホロ…。くるくる回って縦に転がす視界の中で、男の薄く開いた口が「そのくせ、…」と呟き、私の動きを止めた。
あれから、1年も経ったというのに。
年がら年中薄暗いこの島では、今がいつかを忘れてしまう。
「そのくせ、……いっちょまえに強がって、ひとりで危ねェ相手に挑むんだから世話ねェぜ。泣きわめいて、逃げてりゃいいものを…」
「………………」
「あの女は、仲間のこととなるとやけに肝が座って、周りが見えなくなる節がある…まァ、他のやつらも似たようなもんだが……」
「………………」
「それから、…………すぐに、ひとりで泣く。遠慮なんか知らねェくせに、変なところで気をつかうからな……バカが…」
いつか、あと半分もしたら。
この男の日常が動き出し、私の日常は止まるのだ。
そのとき、鋭い目をして腹巻きを巻いた低い声の、ロロノア・ゾロという剣士が戻るのは、きっと、彼女のところだろう。
少しだけ逞しくなった肩に、変わらぬ想いを乗せて。
「……今日はやけに饒舌じゃねぇか」
「……何言ってやがる。これが普通だ」
「そんなに、……」
そんなに、カワイくねぇのか。その女。
ふっ、と鼻で笑って、開いていた手のひらをぐっと強く握りこんだ男は、憎しみなんて少しも感じさせない声色で呟いた。
「あァ……これっぽっちも、可愛くねェ」
遠くを見るような眼差しで、自分の手のひらを眺めていることがあった。
幾度の死線を越えたその手で、いったい何を守ろうとするのだろう。
返ってくる答えはわかっている。だから、決して訊ねようとしない私は、少しだけ、嫌な女かもしれない。
可愛いげのない女
手を伸ばしかけて、ふと気づく。そうだ、私の手ではその心に触れることなどできやしない。
END