剣と虹とペン

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 御剣は、ふうと大きく息を吐きソファに背中を預けた。そして困ったような安堵したような笑顔を見せた。
「すみません」
 奈理も笑顔を浮かべる。
「いや」
「じゃあ、もう行きますね」
 彼女は明るく言うと、すっくと立ち上がった。


「本当に送らなくてもいいのだろうか」
 玄関先でまた彼は聞いた。
「大丈夫です。本当にここで」
 奈理は靴を履き終えると頭を下げた。キャリーバッグに手をかけ、ドアに向かおうとすると、御剣が慌てたように呼び止める。

「奈理くん」
「はい?」
「これからは個人的なことでも相談に乗ろう」
「あっ」
「その‥‥特別にだ。特別に、法律に関することで、いやそれ以外でも‥‥何かあったら、この私に相談したまえ」
「はい」

 奈理はそう返事してから、もう一度、深く頭を下げた。
「本当に‥‥いろいろとお世話になりました」

「どういたしまして」

 御剣は、流れるような優雅な動きで片手を胸に置き、一礼をした。髪がさらりと顔にかかり、いつものよい香りがふわっと漂う。

「あ‥‥。その仕草」

「うん?」

 御剣は顔をあげ、彼女を見つめた。
 奈理は黙って微笑んだ。彼も笑みを返す。優しい顔だ。好きだと言えてよかった。そう確信した。

 だから、笑顔でいられた。

 扉を閉めるまでは。

 扉の閉まる音と同時に、張りつめていたものが突然切れたように、目の前のものがすべて滲んだ。すべての風景がゆがんで流れて見えた。
 奈理は、ぼやけた視界の中を振り返らずにまっすぐ歩いて行く。
 頬を伝い落ちる温かいものをぬぐいもせず、階段を下り、ロビーを抜けた。

 カラカラと車輪の音を立てながら、お城のようだと思った鉄柵の脇の坂道を下りて行った。でも今日はもう、彼は追いかけては来なかった。このあいだの夜のように、後ろから呼び止める声は聞こえなかった。

 今度こそが本当のさよならだ。
 晩春の陽が彼女の背中を暖めてくれた。そのぬくもりが、自分を慰めてくれているような気がして、尚更に涙があふれ続けた。

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