剣と虹とペン

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 堀田クリニックも事件現場と同様に混乱していた。負傷者と思われる複数の人々がロビーにもあふれ、応急処置を受けている。医師や看護師も余裕のない表情で、パタパタと足音を立てて行き来していた。

 御剣は、あたりに漂う血と薬品の臭いにこらえきれず顔を歪めた。慣れたもののはずなのに、いつになく生々しく胸に迫ってくる。《受付》とプレートの下がった窓口には誰もおらず、彼は焦燥にかられて近くのナースを捕まえた。

「爆発事件で、女性が搬送されているはずだが!」

「女性ですか?」
 白衣のナースは、御剣の言葉に表情を陰らせた。「女性は、その‥‥あのかただけです」

 ナースの目に浮かんだ憐みの色に、御剣の動悸がまた早くなる。医療関係者がこういう目をするのは、極めて悪い兆候だ。彼女の視線の先にあるのは、廊下の隅に置かれた1台のストレッチャー。
 その上に横たわった体は白いシーツで覆われていた。御剣が胸騒ぎを抑えながら近づいていくと、布からわずかに出た素足が視界に入ってきた。色を失った細い足首にトリアージのタグがかかっている。

 そのタグの色に気づいた途端、彼は凍りついたようにその場に立ちすくんだ。動悸が喉元までせり上がってくる。
 黒いタグ。カテゴリー0。救命の望みがついえた印、だ。

 ―――奈理?

 まさか。
 違う。
 彼女であるはずがない。

 そう思うのに、足が一歩も前に進まない。
 ゾクゾクと寒気が背中を這い上る。息が、苦しい。
 落ち着け。
 彼は自分の二の腕を掴み、そこに強く爪を立てた。


「ん。どうかしたかな?」

 立ち尽くす御剣の前に、視界を遮るように白衣の男が現れた。頭頂部だけに残った桃色の髪には見覚えがある。

「あっ。あ、あなたは、確か‥‥」

「ん。院長の堀田ですわ」その男は歯抜けの口元を大きく開いて言った。「なにか困りごとかな?」
「救急搬送された若い女性の安否を、そのッ‥‥!」
「んんッ! ワシは若い女性の患者のことなら何でもわかるぞ。まかせなさい。ん。そのコの名前は?」

「奈理‥‥。次野奈理、です」冷静になろうとしても、どうしても声がうわずる。

「ん? 次野、奈理と、な。んんん‥‥」
 白衣の男は体のあちこちを掻き掻き考えはじめた。

「先生。そこの女性は‥‥‥」
 御剣が指したストレッチャーを、男が振り返る。
「む。その人は、その、なんだ。全然ちがうよ。かわいそうに、な。ん」

 言い終わらないうちに、御剣は急き込んでストレッチャーに近づき、頭までかかっていたシーツをめくった。
(‥‥‥!)
 奈理ではない。
 彼は、腹の底から大きく息を吐いた。捜査現場の癖で、手を合わせてからシーツを戻す。

「ん。ちがっただろ? な?」
「では彼女はここには‥‥‥」
「ん‥‥。ここにはおらんよ。そのコはあんたの大事なヒトかな? ん?」
 院長と言った男は、なめるように見ると口元をぬぐう。

「ム。とりあえず失礼させていただく」
 御剣は白衣の男にさっとお辞儀をしてから、背を向けた。次の病院に向かうために。

「おじいちゃん! また院長先生の白衣着て!!」

 背後からの声はもう御剣の耳には入らなかった。



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