剣と虹とペン
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爆破事件当日には、被害状況も徐々に明らかになり、検事局は落ち着きを取り戻していった。死者3名、負傷者数十名を出す惨事となったが、今のところ犯人側以外に犠牲者は出ていない。堀田クリニックの女性遺体も実行犯の一人と判明した。
12階の執務室に戻った御剣は、その報告を糸鋸から受けたあと、溜めていた仕事のうち急ぎのものをいくつか片付けた。ロビーでの顛末についての取材申し込みは事務官にすべて断らせ、当直室のシャワーで染みついたススの臭いを落とす。
新しいシャツに着替えさっぱりしたところで紅茶を淹れようか、上司に報告に行こうか迷い、彼は諦めて部屋を出た。居留守もそろそろ限界だろう。
検事局長は案の定、強い怒りの表情で御剣を迎えた。その背にある窓までが、傾き始めた陽で燃え立っている。
「記者会見に出るよう伝えただろう! しかもこんな写真を撮られるとはどういうことだ!」
局長はデスクの上で新聞をバサリと開き、正面に立った御剣のほうへ投げて寄こした。大きい活字の1枚きりの新聞だ。昼の事件がもう号外になったようだ。
紙面の半分ほどを使って、炎と黒煙を上げるビルの写真が掲載されている。そして、その下にもうひとつの写真。マスコミに遠巻きに囲まれて、赤いスーツの男が女性を抱擁している。
なかなかの構図とタイミングだ。御剣はフッと笑みを漏らし、あわてて顔をひきしめる。
「キミともあろうものが、まったく不謹慎にもほどがある。一体何なんだ、この女性は」
局長はぐいと体を乗り出すと、紙面を苛立たしげに指で叩いた。
「‥‥‥家族です」御剣は写真に目を落としたまま言った。
「家族!?」局長は素っ頓狂な声を上げる。「キミに家族などいたかね? 狩魔検事でもないようだが」
「もうすぐ家族になる‥‥」
「うん?」
「婚約者です」御剣は局長に目を向けきっぱりと告げた。「今回の爆発事件に巻き込まれたと勘違いして、安堵のあまりこのようなことに」
そして両手を体の脇にぴたりとつけて頭を下げる。
「申し訳ありませんでした」
御剣はかつて師匠に叱責されたときのように深く体を折った。彼はその姿勢のまま、婚約者を探し回っていたため会見に出席できなかったことも神妙に詫びた。
顔を上げると、局長は当惑の色を浮かべていた。彼が検事局長に就任して以来、御剣はつねに期待通りの、いやそれ以上の結果を出してきた。このように平身低頭詫びる事態になったことは一度もない。
「そ、そうか。そういうことだったのか。そんな女性がいたのだな」
局長はゆっくりと号外を手元に引き寄せた。「そういった事情ならまあ仕方がない。検事総長には私から説明しておくよ。婚約、おめでとう」
「ありがとうございます」
御剣はいつになくすらすらと礼の言葉を言い、また深く頭を下げた。
その後、彼は早々に仕事を切り上げ、検事局を出た。
―――もう一刻も待てない。
彼は自分でもはっきり自覚できるほどに高揚していた。ムジュンをつきつけ偽りを打ち砕くのはじつに爽快な気分だ。
今回ばかりは、つきつけたのもつきつけられたのも自分自身なわけだが。
ムジュンは、そこに真実が隠されている証しだ。知り尽くしていたはずのことに、なぜ思い至らなかったのか。
恐れていたのは一番欲しているから、逃げていたのは一番必要だからだ。
彼は自宅に戻る前に、近くの輸入食料店に立ち寄った。
祝い事といえばシャンパン、シャンパンといえば苺。赤は吉事にふさわしい色だ。よく熟した苺にしておこう。彼はワインコーナーに足を向け、クーラーから気に入った銘柄のボトルを取り出した。ふと店員と目が合い、自然と笑みがこぼれる。
店員は笑顔を返しつつも驚いていた。時々ここでワインを選んでいる美しい青年。いつも苦虫をかみつぶしたような顔をしているのに、今日はよほどいいことでもあったのだろう、と。
◇ ◇ ◇
奈理は待っていた。
ひと月前まで間借りしていた家のリビングで。
検事局のロビーで彼女は御剣からここの合鍵を手渡されていた。彼は「できるだけ早く帰る」とだけ言って、マスコミを振り切り局内に入っていった。
奈理も同業者たちを振り切り、会社に逃げるように帰ってから爆破事件の記事を書いた。御剣に関する記事は、編集長に頼んで保留にしてある。大騒ぎになった以上、当事者として何も書かないわけにはいかないだろうが、まずは彼に相談しなければ。
―――さっき、ロビーで言われたことは本当なのだろうか。
彼の熱い唇の感触がまだ残っている。
彼女は指先でそっと自分の唇をなぞった。胸の奥がきゅっと締め付けられるが、とても信じられなかった。彼は、そんなふうに近づいてきたかと思うとあっという間に遠ざかる人だ。