囚人検事と見習い操縦士


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「そんな無理ですよ! この崖を下りるなんて!」
「こっち側にも千切れた吊り橋がぶら下がってる。あれをたどって途中まで行って、その下はロープを足せばなんとかならァ」
「危ないですって! こんな足場もない崖を!!」
「それしかねェだろ」

「まだ3日は食料がありますよね? それまでに私がなんとか無線機を直しますから!」
「たったの3日だ。直らなかったらどうする。食料に余裕があるうちに動かねェと、俺が助けを呼ぶまで何日かかるかわかンねェぞ」
「じ、じゃあ。あ、あと2日待って下さい! 2日! 絶対に直してみせます。私、自信あるんです。古い工具箱に黄色いリード線があったでしょ? あれで動きますきっと!」

「‥‥‥」
 夕神はじっと粋子に顔を向けた。月光にその輪郭が白く輝いている。前髪が作る陰に瞳は隠れていたが、唇は微笑んでいた。
「おめえさん‥‥」
「え」
「もう直してンだろ」

「!!!」
 粋子は図星をつかれて目を丸くした。喉が詰まって言葉が出てこない。

「なんで言わねェ」
 彼女はうつむいた。
「‥‥も、もうちょっと一緒にいたいから」
「バカかおめえは」
 夕神は囁くように言うと、両腕を伸ばして、一瞬だけ彼女を胸に抱いた。そして、すぐに離す。

 何か言われる前に、粋子は焦って言った。
「明日。明日、交信します。こ、今夜はもう遅いし」
「ああ」
「黙ってて、すみません」
「ああ」
 夕神は月を見上げた。天頂近くにかかる白い月を。


 ◎ ◎ ◎


 次の日の朝。粋子は、無線機のマニュアルに従い、非常用周波数を使って呼び出しをかけた。1時間ほどで傍受していた人から応答があり、その声を聞いた時には、思わず夕神と目を合わせた。
 その人から通報してもらい、最終的に警察の通信部とつながったが、夕神の指示で彼の名前は出さなかった。前にも言っていたように、あたりが騒動にならないようにだろう。無線通信は多くの人に聞かれている。

 救助の依頼を終えて、二人はどちらからともなく庭に出た。相変わらず強い風が木々を揺らしている。いつの間にか、この風にもすっかり慣れてしまっていた。

「すぐ来るって言ってましたね」
 あまりに簡単に事が進んだことに、彼女は少し拍子抜けしていた。

「とはいっても、相当な山ン中だから数時間はかかるだろうよ。マスコミや野次馬相手に、規制線も張らなきゃなンねえ」
「助けが来るなんて、なんか嘘みたい」
「そうか?」
「ずっと昔からここにいたような気がします」
「へッ。おかしなヤツだ」

 粋子はもう聞き慣れた羽音で視線を上げた。ギンが森からこちらに向かって来ていた。翼を大きく広げた優雅な姿だった。

「ギン! 」

 粋子は伸びをして手を振った。ギンは二人の頭上を何度も旋回する。そして夕神の肩にゆっくりと舞い降りた。

「迷いましたよね? 今」
「あァ?」
「今、ギンちゃん迷ったじゃないですか。夕神さんの肩にするか私にするか」
「さァ、どうだかなァ‥‥」
「迷いましたってば!」

「ねぇギン」
 粋子は爪先立ちになって、男の肩の鳥を見上げる。ギンは、応えるように「クエエ」と小さく鳴いた。
「ククッ。おめえさんにゃァ、コイツもずいぶんなついちまったなァ」
 夕神はギンを撫でながら言った。
「空を飛ぶものなら任せてください」
 粋子が自慢げに言うと、彼はふっと笑った。

「ならよォ。俺が地獄に落ちた暁にゃァ、ギンを頼まァ」
「え?」
 ギンを撫でる男の大きい手。手錠の鎖が揺れて金属の音がする。
「旨いモンでも食わしてやってくんなァ」
 夕神は薄く笑みを浮かべたまま言った。

 彼の言った通り、それから数時間後、遠くからサイレンの音が聞こえて来た。粋子にはその音が、ひどく悲しげに胸に響いた。太陽が傾き始め、空と森の色が徐々に深くなる時刻だった。


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