剣と虹とペン

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 彼が内ポケットに入れた天秤のネックレスを思い出したのは、その日の夜遅く、自宅に帰りついてからだった。彼は上着を脱ぐとき、あわててそれがちゃんとそこにあるかを確かめた。そしてほっとして、それを白いハンカチに包んだまま書斎のデスクの引き出し、奈理の写真立ての隣に並べて入れた。


 ◇ ◇ ◇


 奈理の行方がつかめないまま、数週間が過ぎていた。
 年の瀬が近づき、いつのまにか年が変わっても誰一人、彼女の連絡先を御剣に知らせてくる者はなかった。もう使っていないのかメールの返信もない。心当たりのありそうな人物には再度連絡をしてみたが答えは同じだった。

 御剣は年末年始の数日の休暇を、妹弟子の冥に誘われ初詣にでかけた以外は孤独に静かに過ごした。とりたてて会いたい相手もおらず、それに不便も感じていなかった。ずいぶん前から、彼にとって特別な日ではなくなっていた。
 それでも年明けの出勤日に安堵のような感情が生じるのも毎年のことだ。


 事務室にはもう新しい女性職員が座っている。その後姿が視界に入ると、彼は不意に声をかけたい衝動にかられる。呼びかけると奈理が振り返るのではと、妄想めいた考えが浮かんで自嘲する。
 カフェテリアでも、気を抜くといるはずのない彼女の姿を探している。
 カウンターの隅では今日もオレンジジャケットの男が弁当を売っていた。客が来ないので屋台の周辺をふらふらと歩き回っている。御剣は、はっと思い立ってその男に向かって歩いていった。

「矢張」
 そう言うと、無意識にあごを引いてニラみつける。

「な、なんだよォ御剣。そんなおっかねぇ顔して」
 赤いスーツの男に目の前に立ちはだかられ、矢張は不安げな表情を浮かべた。

「キサマに聞くのはクツジョクだが」
「あ。聞きたいコトがあるなら弁当買ってくれよ。今日成歩堂弁当がスゲー売れ残ってんだよナァ」
 三段重ねの弁当を目の前につきつけてくる矢張の手を払って、御剣は続けた。
「次野さんの連絡先がわかるか?」
「ダレだって?」
「次野奈理という女性だ。お前が一度‥‥‥」
「ああ奈理ちゃん!」
「その奈理くんだ」
 御剣は矢張の声にかぶせるように言った。なぜかこんな男に彼女の名前を軽々しく呼ばせたくない。

「携帯の番号なら知ってるぜ。つうか、オマエなんで知らねぇの?」
「クッ」
 御剣は一瞬顔をしかめた後、何度も聞かされ覚えた番号を空で言う。
「あ、それそれ」
 矢張は自分の携帯で確かめるとうなずいた。
「だろうな」
「なんだよ。知ってるなら聞くなよなッ」
「ないと思うが、もし彼女から連絡があったら教えてくれ」
 御剣はそれだけ言うと、さっさと矢張に背を向けた。

「オマエ、もうフラれたのかよ! あんだけ協力してやったのによォ!!」
 矢張は男の背中に叫ぶ。周りの職員たちが何事かと見つめる中、御剣は大股で立ち去った。


 カフェテリアの帰り、彼は階段の踊り場で書類ファイルを持った女性とすれ違った。女性が会釈して通り過ぎるとき、音楽雑誌を山のように抱えていた奈理の姿が胸をかすめる。
 音楽雑誌‥‥‥。
 彼はまた思い立って、執務室に戻ると内線をかけた。

「おや。御剣さん。珍しいっていうか電話もらうの初めてかな?」
 軽やかな声の後ろで、けたたましい音楽が流れている。こんな騒音の中で執務をするなど信じがたい男だ。

「聞きたいことがあって電話している」
「モチロンそうだと思ったよ。何だい?」牙琉響也はあっさりとした口調で応えた。
 年上でかつ先輩である自分に対して相変わらずのこの気安さはどうだ。御剣は軽く苛立つが、小さく咳払いをして続ける。
「ある女性の連絡先なのだが」
「事件がらみ?」
「‥‥‥いや」
「へえ! 御剣さんが事件がらみじゃなく女性の連絡先を聞いてくるなんて、それこそ大事件だね」
「‥‥‥」御剣は思わず言葉に詰まる。



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