剣と虹とペン

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 所轄署の刑事糸鋸は今日も上司に誘われ、夕焼け駅近くの居酒屋に立ち寄った。テーブルは仕事帰りの人々で混み合い、案内されたのは店の隅のカウンター席だった。
 店に入ってしばらく経つが、上司は黙々とビールを飲むばかりで、注文以外ヒトコトも発していない。酔っ払い連中があっちでもこっちでもワイワイと騒ぐ中、彼らだけが会話もなく場違いに静まり返っている。

 ここ最近、いつもこうだ。
 糸鋸は困ったとき無意識にそうするように耳の後ろに手をやった。誘われて飲みにくるのはいいが、上司はほとんど口をきかず、こうやって妙にタソガレている。昔から何かあると落ち込みがちなヒトではあるが、今は大変なことは起きていないハズだ。とりあえず仕事では。
 いつにも増して憂いをオビた上司の横顔を眺めながら、糸鋸は声をかけた。

「最近、御剣検事に飲みに誘われること増えたッスよね」

「不満か?」

 御剣は低い声でかぶせるように言うと、またビールのジョッキを傾けた。横から見ても、眉間のヒビがくっきりと刻まれているのがわかる。

「とと、とんでもないッス! ヒジョーにありがたいッス!」

 糸鋸はあわてて否定した。理由もなくオゴってはくれない上司だが、ここのところはなぜかカネ払いがいい。もっとも、いつも小銭しか入っていない自分の財布では、毎度の飲み代を出すのはどう考えてもムリなわけだが。
 ただ、オゴリだからって、上司はけっして機嫌がいいわけではない。かといって悪いわけでもない。

「けど検事殿、酒の量もちょっと増えてないッスか?」

「ム‥‥‥」

 グッと深まる御剣の眉間のヒビに、糸鋸は一瞬ひるみながらも続けた。
「なんというか、その‥‥。こういう場合ははっきり言ったほうがいいと思うッス」
「はっきり、だと?」
「お互いの傷が浅いうちがいいッス」
「傷ッ?」
「課長もいま同じ状態ッスよ。家に帰りたくないからって毎晩遅くまで酒飲んで」
 そこまで言って糸鋸は、自分もビールをぐびぐびと飲んだ。空になったジョッキをカウンターにドンと置く。「ぷはァ。うまいッスゥ」

「課長がなんだって?」
 御剣は目のふちを少しばかり赤くして、ニラむような視線を糸鋸に向けた。
「どうも奥さんとうまく行ってないらしいッス。あちこち飲み歩いちゃ、ヒドイときは署で寝泊まりしてるッスよ。付き合わされるこっちの身にもなってほしいッス」
「‥‥‥」
「でもホラ、御剣検事は結婚してるわけじゃないッスから。ここははっきり言って、出て行ってもらったらどうッスか。もともと自分は、あの子は御剣検事にはどうかと思ってたッス。事務職員のときもドジばっかでロクに‥‥」

「彼女はもう出て行った」

「へ?」
「ひと月前からいない」
 御剣は、らしくない緩慢な動きでツマミを口に運ぶ。
「そ、そうだったッスか‥‥」

 糸鋸はあらためて上司を眺めた。背中を丸めるようにしてカウンターに向かう姿は、法廷で胸を張るいつもの検事殿とはえらく様子が違う。

「でも、その方かいいッスよ。ヘタに長くいると、ホラ」
「‥‥‥」
「いろいろと‥‥その」
「ムジュンが起きる」
「へっ? ムジュンッスか?」
 糸鋸は意外な言葉に、上司に向けた目を見開いた。
「ムジュンはなくなった」
 御剣は糸鋸には目もくれず、自分もジョッキを空にすると手をあげて店員を呼んだ。

「そ、そりゃなによりッス‥‥‥」
 
 糸鋸はとりあえずねぎらったあとは口をつぐんだ。こういうときの検事殿は何を聞いてもますます訳の分からないことを言い出すだけで、ヘタすると機嫌をそこねてしまう。
 それで彼は自分も黙々と腹を満たしてから、通りでタクシーをつかまえ上司を敬礼で見送った。酔っているのかいないのかわからない上司を。


 ◇ ◇ ◇


 御剣はタクシーで自宅に帰り着くと、リビングのソファに身を投げ出すようにして座った。
 彼女が出て行ってからひと月。部屋がやけに広く感じるのにも、明かりの消えた窓の暗さにも慣れた。
 そして、この静けさにも、おそらく。



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