剣と虹とペン

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 いや彼女が特別うるさかったわけではない。いっときの例外を除いては。
 静寂を感じるのは、物音のことではないようだ。
 テーブルに放置された見慣れぬ本や雑誌、ソファの背にかけたままの服、消し忘れたオーディオの電源ランプ、冷蔵庫に入っていた安っぽいパッケージのお菓子の類。そして時々リビングに残っていた優しい香り。

 今はなにひとつなく部屋は沈黙し、出かけた時のまま一分もかわらない。
 これが、自分が選んだ静けさだ。それはわかっていた。この据わりの悪さは後悔や喪失感などではなく、単に慣れの問題であることも自分の中では決着がついている。人間は、一定期間そうであった状態に慣れてしまうものだ。何事にせよ。

 その時、胸ポケットに入れたままの携帯が鳴った。空気を震わす電子音に、御剣は深い疲労感を覚えつつそれを取り出した。
 しかしディスプレイに浮かぶ次野奈理の名前を見た途端、自分でも驚くほど気持ちが高ぶる。話すのは彼女が出て行って以来だ。

「ちょうどキミのことを考えていた」電話に出るなりそう口をついた。

「えっ!?」
「うぬ‥‥」思わず心情を吐露してしまったことに御剣は焦る。「な、なんだったろうか」
「あっ、あの」彼女も我に返った様子で続けた。「明日、検察の同行取材するんです。夕闇町にある団体の捜査なんですけど」

「ほう」
 御剣もその事案については把握していた。闇組織とつながりのある団体を追っていたチームが、明日いよいよ強制捜査に乗り出す予定だ。たしか、夕闇町のキタキツネビルに事務所を構える団体だった。

「もしかして、御剣検事も一緒じゃないかと思って電話してみたんですよ」
「その件であれば、私は担当外だ」
「そうですか‥‥」がっかりしたような奈理の声。
「ああ。残念ながら」
「はい‥‥」

「その後!」
 御剣は、またとっさに言っていた。「キミは検事局に来るのだろうか?」

「えっと、取材が終わったら検事局の記者室で記事を書く予定です」
「では、時間があったら私の執務室に寄りたまえ。紅茶でもごちそうしよう」
「えっ、いいんですか!?」
「1202号室だ。覚えているか?」
「もちろんです!」

 御剣は電話を切ると、心に小さな灯がともったように気分が明るくなっていた。しかしそれがなぜかを考えることはしなかった。


 ◇ ◇ ◇


 翌日の昼時、御剣は足取りも軽く検事局の階段を駆け上る。カフェテリアの入口に立った彼は、壁際のテレビモニターの前の人だかりに気づいた。

(事件でも起きたか)
 そうひとりごちる。何かニュースがあるときには珍しくない光景だが、それにしては今日は集まる人の数が多い。ざわつく声もいつになく大きいようだ。
 あまり深く考えることなく御剣は、職員が作る人垣の後ろから高い位置にあるモニターを眺めた。

『LIVE!! 検察の強制捜査中に爆発、ビル火災発生!!』

 ものものしいテロップとともに、ヘリからの空撮画像が流れている。雑然とした街に建つビルの中ほどから、赤い炎と黒煙が上がっていた。周辺の路上には緊急車両が何台も連なり、ひどく緊迫している。御剣は眉根を寄せ、人の間を縫ってゆっくりテレビモニターに近づいて行った。

 画面がスタジオに切り替わる。男性アナウンサーが硬い表情で話し出した。
『―――本日午前11時すぎ、夕闇町の雑居ビルでとつぜん爆発が起き、火災が発生しました。出火場所は、検察による強制捜査が行われていたビル5階付近と思われます。あっ、ただ今、現場とつながりました』

 続いて、規制線の前に立った報道レポーターが映し出された。遠景に黒煙を上げるビルが見え、カメラ前に押し寄せる野次馬を警官が制している。

『こちら、現場となっているキタキツネビル前です。懸命の消火活動が続いていますが、まだ非常に危険な状態で、われわれ報道も近づくことはできません』

『爆発の原因はわかりましたか?』

『はい。警察によりますと、強制捜査を受けていた団体の自爆テロのようなものとの見方が強まっています。この団体は、爆薬密輸との関連性も疑われており‥‥‥』



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