剣と虹とペン
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じっと待っているのに息苦しさを感じ、彼女は立ちあがってリビングの窓を開けた。
夕暮れの清涼な風に当たっていると、玄関チャイムが部屋に響く。ここにいた時のルール通りに。ずいぶん早い時間に鳴ったその音に、心臓もドクンと鳴る。
御剣は鼻歌まじりに軽やかな足取りで部屋に入ってきた。白いフリルタイがヒラヒラして、赤いジャケットの裾が翻る。彼は、窓際に立つ奈理と目を合わせて微笑み、まずはキッチンに入っていった。買ってきたらしいものを冷蔵庫に入れている。奈理はそろそろとソファに座り、どきどきしてその動きを目で追った。
御剣はリビングに戻りながらジャケットを脱ぎ、いつものように慣れた手つきでフリルタイも抜き取ると、シャツのボタンを上から2つ3つ外す。
そして彼女の座るソファへ大股で歩いてきたかと思うと、すぐ隣に腰を下ろした。とても近い位置に。
(‥‥!)
奈理の胸が早鐘のように打ち始める。
御剣は片手で奈理の後ろの背もたれを掴み、彼女に体を向けた。彼の頬は少し紅潮して、走って来たかのように息も少し上がっていた。近い距離からまっすぐに見つめられ、奈理も頬が熱くなる。襟が開いたシャツの奥に白い肌が見え、さらにどぎまぎする。
御剣のほうはとてもリラックスした楽しそうな表情だった。その表情のまま彼は滑らかに言った。
「私たちは、家族にならなくてはならないと思う」
「かかっ、家族‥‥ですか?」
いきなりの言葉に奈理は目を見開いた。
「そうだ。家族になる方法は‥‥わかるね?」
「方法?」
「法的にだ」
「法的っ!?」
予想だにしない話の展開に、彼女はパニックに陥った。家族にならなくてはならない!? この人はいったい何の話をしているんだ‥‥!?
「もう、わかっただろう?」
御剣はますます楽しげな顔をした。奈理の頭の中で単語が飛び回る。家族。法的。家族。法的。彼の視線を受け、まばたきをしながら彼女は必死に考えた。
お互いに親を失っていることと、なにか関係があるだろうか。
「よ、よ、養子縁組ですか?」
「バカなッ‥‥」御剣は呆れたように天をあおいでから、また視線を戻す。「誰が誰の養子になるというのだ。もう1つ方法があるではないか」
「えっ?」
「民法739条」
彼は眉間にぐっとシワを寄せて言った。
「は?」
「キミも法律でメシを食う人間のはしくれだろう」
「あ。はははい」
彼女はバッグを引きよせ、中をかき回してポケット六法全書を取り出した。焦りのあまりよく動かない指で必死にページを繰る。
「民法ですね。民法民法」
やっとその数字が目に入った。
「‥‥‥第739条」
彼女は読み上げる。
「‥‥1項‥‥。こここここ‥‥」
もう、まともに文字を追うことすらできない。
「こここ婚姻は戸籍法の定めるところによりこれを‥‥‥っ!!」
「どうだろうか」
御剣はさっきよりはいくぶん真剣な表情で言った。
「ほっほっ、本気ですかーーっ!?」
「私がかつて一度でも、法律を冗談で扱ったことがあると思うか?」
「‥‥‥」
「いやかね?」
「‥‥‥い、いやというより、ととっ、突然そんなこと言われても‥‥」
「そう思って、考えておいた」
「はっ?」
「まず婚約すればいい。そうすれば少しずつ、自分たちも周りもなじんでいく」
「こ、婚約!?」
「日本の法律で、婚約の定義はあいまいだ。口約束でも成立する。今ここで、私たちは婚約することができるのだ。不十分と思うなら、検事・御剣怜侍の名において誓約書を書こう。そしてお祝いだ」
彼は流れるように言うと、優雅な手の動きでベストの胸ポケットから万年筆を抜き取った。それをかちりとテーブルに置く。
「ままま待って下さいッ! わたしたち、つつつ付き合ってもいませんよね?」
「付き合わずに婚約はおかしいか? 百年ほど前までは、互いの顔も知らぬまま結婚する夫婦もいたのだぞ。われわれは2か月も共に暮らしたではないか」
そして独り言のように付け加える。「私の妻になるにはいろいろとアレなところもあるが、まあソレはおいおいでいいだろう」
「も、もう、何言ってるんですか!! 百年前とは違います!! それに‥‥大事なものが‥‥‥」