囚人検事と見習い操縦士


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 男は襟首を掴んだ手をさっと離したかと思ったら、今度は胴に腕を回してきた。這いつくばった体を片腕で軽々と抱え上げられる。ジタバタあがいて腕をなんとか引きはがそうとするが、後ろからガッチリと回された男の前腕はびくともしない。

「てめェ、死にてェのか」耳元で声がする。お腹に響くような低い声だ。

「死にたくないです死にたくないですごめんなさいごめんなさい」
「ちったァ落ち着いて、前を見やがれ」
「ひぃ。ごめんなさいごめんなさい」
 涙まで出てきた。後ろから抱えられ中腰になったまま、粋子は鼻をすすり上げた。
「前を見ろってンだッ!」
 男は、しびれを切らしたように一喝した。

「‥‥‥‥‥‥は?」

「その目ン玉は、ただのガラス玉かァ?」

 ヒョオオオオオオオォォォォ。

 ひんやりとした突風が、音を立てて彼女の顔を撫で上げていく。

「えっ?」
 つま先からすぐの場所に深い断崖があった。遥か下方に川の流れが見える。
「うそ」
 違う恐怖で足がガクガクとしてくる。今、止められなければ間違いなくあそこに落ちていた。白いしぶきが岩を打つあたりに。後ろからしっかり回された男の腕が、急に頼みの綱のように思えてくる。

「まったく世話の焼ける小娘だ」

 抵抗を止めた粋子の体を、さらに一歩二歩後ろへ引きずってから夕神は手を離した。
 足が震えて立っていられず、彼女はその場にしゃがみこんだ。


 ◎ ◎ ◎


 放心して地べたに座り込んで、どれだけ経っただろう。粋子は、重なった山々の向こうに、黒い煙が細く立ちのぼっているのに気づいた。はっとして声を上げる、

「煙っ!?」

「あそこに墜落したンだろうよ」
 やっとパラシュートの紐を全部外し終えた夕神が言った。
「ききき機長がっ!!」
 粋子はすっくと立ち上がった。「たたた助けに行かなきゃ!!!」

「そりゃァ、無理だろうなァ」
「えっ」
「ここから出れやしねえ」
「ど、どういうことですか?」
「おめえさん、視野が狭ェなァ。前世はフクロウか?」
 夕神はクククッとさも面白そうに笑ってから言った。「首をちぃとばかし回してみな」

「あ‥‥‥っ?」

 首を回すと、視界に入ってきたのは川にかかる吊り橋‥‥の残骸。朽ちたような木の橋が、向こう岸にぶらさがって風に揺れている。粋子はイヤな動悸がしてきて、あたりをぐるりと見回した。
 狭い土地だった。四方を断崖に囲まれていてどこにも行き場がない。さらにパラシュートの傘に隠れていたものが視界に入ってきて、彼女はぎょっとした。

 二つの塔を持つ洋館。
 それが、狭い小島のような土地にそびえたっている。窓はひび割れ、白壁には落書きされて、一目で廃屋とわかる。
「あ、あれは?」
「美術館だ。元、な」
「美術館! だったら人が通りますよね? あの道」

 粋子はホッとして、向こう岸を指差した。吊り橋は落ちてしまっているが、道路が見える。美術館のあったような場所なら、人通りや車通りがあるだろう。これで機長の救助も依頼できる。



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