囚人検事と見習い操縦士
□三
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「残念だがここは、人っ子一人来ねェ山奥の奥さァ」
「‥‥‥」
「数十キロ行っても小屋一つありゃァしねえ」
どうもこの人はここをよく知っているようだ。粋子は必死に聞いた。
「吊り橋のほかに道はないんですか!? あの建物の裏とか!」
「ねェな」
「じゃあ機長は‥‥‥っ!?」
粋子は叫ぶように言った。
最後に見た、師匠の横顔が脳裏に浮かぶ。あのあと高度が落ちて、山肌がどんどん近づいて‥‥‥。彼女はぎゅうっと目を閉じた。どうか命だけは助かってほしい。
「行ったところで、とっくにオダブツだろうさ」
夕神がごくあっさりと言った。情のカケラもないその言いぐさに、粋子はカッと頭に血が上る。
「そそそんなに、かかか簡単に言わないでもらえますか?!」
「はァ? 丸腰で墜落したらオダブツ。当たりめェの話だろうがよ」
「ああ当たりまえって、だだ誰が決めたんですかッ!!」
粋子は両足を踏みしめて、座っている男を上から睨みつけた。言っているうちにますます興奮してくる。
「お、お、大河原さんは、私にとっては家族同然の大事な人なんですからね! し、師匠を殺すような人殺しには、わからないかもしれないけどッ!‥‥‥はっ!」
粋子は発した言葉に自分で驚き、凍りついた。
夕神は黙って彼女を見返す。粋子が視線を外せないまま硬直していると、男はふと目を落として軽く笑った。
「ヘッ。かみつくねェ」
そう言って、ゆっくり立ち上がる。近くに立つと、見上げるような大きさだ。粋子がぴくりとも動けず見つめ続ける中、男は服についた泥を軽く払ってから背中を向けた。長い上着の裾を風にあおられながら、左の塔の入口へと歩いて行く。
鍵でもかかっていたのか、彼はブーツの片足を上げて扉を強く蹴りつけた。バタン!と大きい音がして扉は開き、夕神はその中へ消えた。
一人取り残され、粋子は自分の足がガクガクと震えていることに気づいた。
力の入らない足で狭い土地を一周してみて、改めて出口がないことを知る。まわりを絶壁に囲まれて、崖の下には急流の川。山の中だからか、吹きつける風が冷たい。
かつて吊り橋がかかっていたあたりには、《せせらぎ美術館》という古びた看板が残されていた。今の気持ちとかけ離れた文字の響きに、彼女はどっと脱力して草むらにへたりこんだ。
どうしたらいいのか全く見当がつかない。あんな恐ろしい殺人鬼と一緒に、こんな淋しい場所に閉じ込められ、これから一体どうなるんだろう。師匠はもうダメなのか。悲しくて心細くて涙があふれてくる。粋子は膝を抱え、雑草と一緒に風に吹かれて、長いこと涙を流し続けた。
「いつまでヒナ鳥みてェにピーピー泣いてやがる」
突然、頭の上から低い声がした。
「ひゃあっ」
「なにがひゃあだ。なさけねェ声出しやがって。さっきの勢いはどうした」
粋子が顔をあげると、夕神が腕を組んで見下ろしていた。
「真正面から人殺し呼ばわりするたァ、いい太刀筋だったじゃねェか」
「たちすじ‥‥‥?」
「いいから、メシでも食いなァ」
「メシっ!?」
粋子が目を丸くすると、腹のほうが鳴って返事をした。太陽は傾き、早くも山影に近づいている。
「さっさと来な」
粋子は涙を拭ってよろよろと立ちあがると、背を向けた夕神のあとを黙ってついて行った。
日暮れ時、殺人鬼と一緒に廃墟の洋館に入っていく。その恐怖に満ちた状況を、頭は拒絶しながらも、足はなぜか動いていた。粋子の意識は、この男に二度も助けられたことを忘れていたが、体のほうはちゃんと覚えていたから、かもしれない。
(つづく) →四へ