囚人検事と見習い操縦士
□四
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洋館は、二つの塔のような建物が、窓の並んだ渡り廊下でつながる構造になっていた。
粋子は、男の大きい背中に続いて左の塔の扉に入る。中は廃屋にしては整然としていたが、埃っぽく、薄暗く、少しだけかび臭かった。後ろで軋んだ音を立てて扉が閉まると、肩がびくっと震える。
夕神は、そんな彼女にはおかまいなしに、美術館の受付だった場所を通りすぎ、悠々と歩いていく。広い廊下を奥まで行って、つき当りのドアを開けた。
そこは、明るい窓のある小部屋だった。なぜか、まだ人が住んでいそうにきれいなキッチンと、テーブルが一つ。洗剤のような清潔な匂いもする。
「コーヒーでも飲むか」
夕神は、自分の家に招き入れでもしたかのように言った。その長身のせいでやけに低く見えるキッチンに立つと、軽くかがんでクッキングヒーターのスイッチを入れる。その上にはきれいに磨かれたケトルがあった。
その光景に、粋子は現実感を喪失してクラリとめまいがした。まだ悪い夢の中にいるのだろうか。テーブルには、缶や箱入りの食べ物があった。ペットボトルの飲料も。缶詰には果物やら魚やらの絵が見える。どれも埃ひとつかぶっていない。
「こ、これは?」
彼女は立ちつくして、テーブルを見つめた。
「あのオッサンは溜めこむ性分だったらしいなァ。保存食が腐るほどあるぜ。もっとも、腐ってもらっちゃァ困るがな」
夕神は、クククッと喉で笑った。椅子を引くと、長い足で座席をまたいで座る。
「あのオッサン‥‥?」
「ここの館長だ。元、な」
こちらを見る男の目と黒い隈が恐ろしく、粋子はまばたきして視線を外す。
彼の話によると、ここは元館長の住居も兼ねていたので、日用品が一通り揃っているらしい。
「く、詳しいんですね」
「まァな。仕事柄さな」
この美術館は半年ほど前に閉鎖され、その後すぐ吊り橋が不審火で焼け落ちた。そのおかげですべて閉館した時のままで、水道も電気もまだ使えると夕神は言う。検事という仕事と、美術館がどう関係するのだろう。粋子は不思議に思いつつも、視線を上げられず夕神の胸のあたりに目をやってうなずいた。ネクタイは、変わりなく生真面目にきっちり締められている。
そうだ。水道や電気が通っているのなら‥‥。
「あ、あの。電話は通じてないんでしょうか?」
「調べてみたが不通だなァ。こればかりは大元で切られちゃァどうしようもねェ」
「そうですか‥‥」
「囚人が携帯なんざァ持ち歩いてるワケもねェしな」
彼女が聞く前に、男が付け足した。粋子も携帯電話は機内に置いたままだ。
「まあ、そこらに座って、好きなのを食いな」
そう言って大きい手で椅子を指差した。手が動くたび、手錠から垂れた鎖が鳴る。
男の前髪は半分近く真っ白だ。この白髪と低い声のせいで、もっと歳がいってると思っていたが、今改めて見るとそうでもない。思ってたより若そうな人だ。
粋子は頭を下げて、椅子の一つにそっと腰を下ろした。
「でっ、では、いただきます」
さっき外では、ついカッとなってあんなことを口走ってしまったが、もうあまり刺激しないようにしなくては。次も何事もなく済むとは限らない。腕力もものすごく強そうだし、もし本気で怒らせでもしたら大変なことになりそうだ。彼女はおとなしく、クラッカーの缶を選んで開けた。緊張のせいか、食べても何の味もしない。
夕神は沸いた湯でインスタントコーヒーをいれると、紙カップを2つテーブルに置いた。コーヒーの香りは感じられて、少しほっとする。
囚人も向かいでカップを傾け、こちらをじっと見ていた。こうやって安心させておいて、これから私をどうしてくれようかと考えているのかもしれない。そう思うと、また恐怖が背筋を這い上がってくる。こういう時は、たくさん会話したほうがいい。たぶん。
「ゆ、夕神さん」
「なんだ」
「こ、コーヒー、おいしいです」
「そうかい」
「こ、この部屋だけきれいなのは、なぜでしょうね」
「俺が掃除したからに決まってンだろ」
「えぇっ! そうだったんですか。なんかすみません」
「囚人にゃァ、慣れたコトよ」
「へえ‥‥」
「‥‥‥」
会話が途切れてしまった。焦って続ける。
「ゆ、夕神さん」
「あァ?」
「す、すぐに、助けが来ますよね」
「事故機は近いうちに発見されるだろうな。周辺も捜索するだろうさ」
粋子はその言葉に安堵する。