死神検事のメイド
□T.
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T.伝習生
テムズ河をのぞむ簡素な窓のむこうは、今は深い霧に覆われ、時折、石畳を走る馬車の音だけが聞こえてくる。白く塗り込められた窓硝子を背に、古びた机についているのは、使用人登録所の女主人。倫敦市街地のはずれにあるここは、家事使用人としての働き口をあっせんする場所である。
「メイド養成学校を先週卒業、基礎的な知識は習得している、と」
女主人は登録書類を読み上げると、ひかえめに腰掛ける若い娘に目を向ける。娘が身に着けているのは、養成学校の制服らしい濃い色のドレスに地味な帽子、黒い靴下と革靴。エプロンとキャップをつければ、すぐにでも働き出せるだろう。
とはいえ‥‥‥。
「日本から、わざわざメイドの仕事を習いに?」
「はい。英吉利にて最先端の仕事を学ぶため、祖国より派遣されました」
「最先端‥‥? メイドはむしろ伝統的な職業の一つですよ」
女主人は僅かに首をかしげる。「‥‥東洋では違うのかしらねえ」
――19世紀末、日英和親航海条約が締結されたのち、近代化を急ぐ大日本帝国政府は、未来を担う若者たちをつぎつぎと大英帝国へ送り込んだ。法学や医学の留学生として、あるいは様々な職業技術を学ぶ伝習生として、世界随一の繁栄を誇る帝都・倫敦へ。
今、使用人登録所で面接を受けている山富りんも、1年前に英吉利に渡ってきた伝習生だ。職業婦人がほとんど存在しない明治日本では、婦人が専門の教育を受け、決まった給金をもらって働くことは、時代最先端と考えられていたのである。
「‥‥‥でもまあ、そんなことをアナタに言っても仕方ないわね。お国から派遣されたのなら」
「どうか、よき勤め口をご紹介ください。精一杯働きます」
凹凸の少ない顔だちに真剣そうな黒い瞳。女主人は丸い眼鏡の蔓をつまみ、鼻のうえに引き下げる。相手の顔を覗きこみ、その意志を確かめるために。
「ここ倫敦には、英吉利じゅうから職を求めて人が集まっているの。外国人の、しかも伝習生のメイドを雇うお屋敷は、そう簡単には見つからないでしょうね」
彼女は机の上に開いた分厚い台帳をぱらりぱらりとめくっていく。
国から送り出されたとはいえ、なかなか伝習先が見つからず、りんのように登録所回りをしなければならない者も少なくなかった。
「ん。ちょっとお待ちなさいよ。驚いたわ」
そう言って、とある頁でハタと手を止める。
「え」
「アナタ中国人だったかしら?」
「日本人です」
「それは幸運ね! あったわよ。日本人なら条件を問わずに採用するという御宅が。なんと珍しい」
「ほ。本当でしょうか!」
「ええ。家柄も社会的地位も申し分ない英国紳士のタウンハウスよ。今、紹介状を書きますから、ドアの外で待っていなさい」
「ありがとうございます!」
タウンハウスは、上流階級の人々が、田園の大邸宅とは別に、倫敦に構えるこじんまりとした住宅だ。こじんまりとはいっても、庶民のものとは比べものにならない広さと豪華さではあるが。
りんは、椅子から立ち上がると、思わず日本式に深々とお辞儀をした。そのせいで、頭に載せた帽子をあやうく落としそうになるのだった。
◆ ◆ ◆
仕事を得たばかりのりんは、身の回りのものが入った旅行鞄を一つ携えて、四つ角で乗合馬車を待った。冬の倫敦はあっという間に日が落ちる。すでに薄暗くなってきた大通りは、帰宅を急ぐ人や馬車で大いに混雑していた。
勤め先が思ったより順調に見つかり、彼女はほっと胸をなでおろしていた。伝習生とはいえ、日本国から支給された金額は養成学校の学費も入れて30ポンドと少なく、底をついたら即刻帰国しなければならない。
冷たい霧の間から出て来た乗合馬車が、車輪をきしませ歩道脇に止まる。御者がたずなを緩めると、馬はブルンと鼻息を鳴らした。客車に乗り込む前に、りんは高い位置の御者台に向かって声をかけた。運行ルートが違っていたら遠回りになってしまう。
「あの。ば、バンジークス邸に行きたいのですけれど。ええと住所は‥‥」
ガス灯の明りを頼りに、紹介状のおもてに書かれた地名を読み上げる。
「どこだって?」
緑のシルクハットをかぶった御者が聞き返す。地名の発音に自信がなく、りんは御者台に手を伸ばして封筒を見せた。
「はいよ。死神先生のお屋敷ね。馬車ギルドの御者は正直者だ。どこまで行っても4ペンスさ」
御者は流れるように言って、手のヒラを彼女に差し出した。
「い、今なんと?」
「馬車ギルドの御者は正直者だ。どこまで行っても4ペンス!」
御者に4本指を示され、りんは硬貨を渡しながらもう一度聞く。
「いえ、その前です。その前‥‥」
「ん? 死神先生のお屋敷だろ。着いたら教えてやるから、さあ乗った乗った」