死神検事のメイド

□X.
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X.水晶塔


 中央刑事裁判所、通称《オールドベイリー》の検事バロック・バンジークスは、仕事でも乗り慣れた二頭立ての自家用馬車を使用した。政財界や貴族など社会への影響が大きい事件のみ扱い、しかも罪人を決して逃すことがない彼は、英国法曹界一有名な検事でもあった。彼の馬車が止まる場所は、重大な事件が起きている場所でもある。

 今日もここ倫敦万博会場の裏手に、金の紋章がついた箱馬車があった。やがて現れたバンジークス検事は、門衛に敬礼で見送られ、それに乗り込む。外国大使が絡む事件が起きたことから、その捜査を取り仕切った帰りであった。

 万博が開幕して以来というもの、会場となるハイド・パーク周辺はつねに大渋滞だ。来場客が馬車道まで埋め尽くして、バンジークスの馬車も遅々として進まない。長い冬の終わりを告げるかのようによく晴れた朝で、普段よりさらに多くの人出があった。

 会場中心では、科学技術の粋を極めた水晶塔が、陽光を受け燦然と輝いている。上空にはそこかしこに気球が浮かび、地上は土産物屋の売り声でにぎわう。長蛇の列は入場券を求める人々だろう。
 倫敦の平和と秩序を守るためとはいえ、未明から呼び出されていた検事は、目の前の喧騒に軽く疲れをおぼえ窓の日よけを下げようとした。が、はたと手を止める。入場券売り場の前に、倫敦警視庁の警官が多数出動していた。何か騒ぎでも起きているのか。よく知る刑事の姿が見えて、バンジークスは、仕切りを叩いて馬車を止めた。

 彼が外出用の帽子をかぶると、その全身は7フィートを超える。はためく黒いマント、十字に刻まれた顔の傷、硬質の靴音、腰のサーベルが鳴る音、どれをとってもあたりを威圧し、彼が何者かも知らぬまま人々は道をあける。そのおかげで、混雑のなか彼は大して苦労せず目的の場所に到着した。

「グレグソン刑事」

 黒マントの検事は、緑がかった外套の男に声をかける。
「はッ! バンジークス卿!」
 刑事はいきなり現れた上官に驚き、手のひらを見せて敬礼した。
「なにごとだ」
「いや、ただの集団スリなんですがね。被害者が勝手のわからない外国人だったもんで、混乱しちまったようですな」

 刑事が手にしたフィッシュ&チップスの包みを振りながら報告する。そのクズがかかりそうになり、検事は顔を背けて聞いた。
「外国人、だと?」
 公園の木々の間に作られた券売所の脇で、白い水夫服の集団が警官になにやら言い立てている。

「は。‥‥しかし、心配はご無用であります。卿がお出ましになるような高官ではなく、ただの観光客連中ですので。露西亜の船乗りと、あとは日本人ですな。和親航海条約以降、日本人はどこにでもおりますなあ」
 グレグソンは今度は帽子の後ろに手をやり苦笑いをする。
 バンジークスが改めて目を向けると、水夫の巨体の陰に、和装の娘が見えた。見覚えのあるキモノとそれに合わせて結い上げた黒髪。

「バンジークス卿?」

 問いかけるような刑事の声を背に、彼は娘へ足を向けた。
 日本人。東洋の島国から現れるこの厄介で不可思議な者ども。この5年、法廷を離れてからも彼は、その本性について考え続けてきた。あの若き日本人弁護士に出会ってからというもの、ますます謎は深まるばかりだ。

 のどかな木漏れ日と対照的に、娘は沈んだ顔色をしていた。ただでさえ注意力の足りないこの日本人が、大帝都・倫敦の巧妙なスリから身を守るすべを知る由もない。

「リン」

「あれっ!? 旦那様!」
 名を呼ばれて娘は、目を丸くした。目の縁がほんのり赤い。
「そなたであったか」
 声をかけるとますます目の縁の赤味が増す。屋敷で鉢合わせする度、いつも怯えた目をして見てくる娘が、自分を認めてその表情にみるみると安堵の色を浮かべるのを、彼は少しばかり意外な思いで眺めた。

「お知り合いでしたか? あの日本人留学生のお仲間ですかな」
 刑事が後ろから声をかけてくる。
「いや‥‥使用人だ」
「なんと! それはキグウですな。この娘さん、連れもなく、帰りの馬車賃もないとかで困ってたところでして。検事殿の使用人とあれば、あとはお任せして‥‥」
 グレグソンは帽子を胸のあたりに抱きかかえ、媚びたような笑みを浮かべる。

 バンジークスが承諾の一瞥を与えると、刑事はこれ幸いと立ち去った。
 それにしてもこのような場所に女一人で来るとは‥‥なんという、愚かな行動であるか。バンジークスは驚き呆れた。やはり東洋の娘の勇敢さは、無謀としかいいようがない。



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