虹の検事局・後編

□第26話(5P)
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 彼女は、御剣に、仕事の邪魔をしたお詫びと、話を聞いてもらったお礼を言って、立ち上がった。御剣は、執務椅子に座ったまま、彼女を見送る。

 * * * *

 執務室でひとりになった後、御剣は、深くため息をついた。執務机から立ち上がり、警察局での捜査会議に向かいながら、考えをめぐらす。

 検事局長に呼び出されたのは、この一件に関してではない―――仁菜に言った言葉、それは、正確には事実ではなかった。
 たしかに別の理由で呼び出されはしたが、本題は、先日の事件にまつわることだった。現役検事2名が巻き込まれ、下手をすると両名が殺害されたかもしれないという事件について、検事局長が敏感になるのは当然だ。しかし、いくら局長とはいえ、ひいては検事審査会ですら、検事が同級生の家を訪問することや、犯罪者に拉致されること、そしてそれを救出に向かうことを糾弾することはできない。こんなことでキャリアに傷など、つくわけがない。この程度を傷というならば、とっくの昔からついている。

 彼は人々の無責任な、あるいは時として悪意の噂話に晒されることには慣れていた。噂には何の力もないことも、よく知っている。
 そんなことより、と彼は思う。あの事件以来、彼の心を占めているのはもっと別のことだった。

 あの夜、病室で思わず仁菜を抱きしめてしまって以来、彼は、彼女に触れたいという思いを、コントロールする自信がなくなっていた。だから今も彼女に近づくことができなかったのだ。触れられる距離にいたら、目の前で泣かれたりしたら、彼女をまた絶対抱きしめてしまう。抱きしめるどころか、そのあと何をしでかすか、彼には想像もつかない。

 彼女がそばにいると、突然、息がつまるような激しい感情が沸き起こる。仕事に集中しているとき以外は、彼女のことが頭から離れず、彼女の顔を思い浮かべると、胸が締め付けられるように苦しい。なぜこんなにも苦しいのか、これからどうしたらいいのか、御剣にはまったくわからなかった。

 今まで、女性との出会いがなかったわけではない。しかし、それは、もっと気軽で楽しいもので、このような苦しさは皆無だった。彼は、とにかく、この苦しさから逃れたかった。しかし、どうすればいいのか、考えても考えても見当がつかない。

 こんなことを相談できる相手は、誰もいない。
 ‥‥‥いや待て‥‥‥。
 御剣の頭に一人の男の顔が浮かんだ。茶髪であごひげのあの男。進むべき道が見えたような気がして、御剣は少しだけほっとする。

(正しい道なのかどうか、不安だがな‥‥‥)
 彼は、フッと片頬で笑って、警察局の玄関を颯爽と通り抜ける。顔見知りの立番警官が、御剣を認めて、必死に敬礼するのにまったく気づかないまま。

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