剣と虹とペン

1
1ページ/3ページ


1

 地方検事局12階。
 上級検事たちの執務室が並ぶこのフロアで、雑務を一手に引き受ける事務室の朝はいつも慌ただしい。執務室に届けられる新聞や郵便物の振り分け、そしてお茶やコーヒーの準備。毎朝2人の女性事務職員がうっすらと汗を浮かべながら作業する。
 検事が出勤したら待たせず届けなくてはならないため、時間との戦いだ。12階の上級検事のうち、一番最初に用意されるのはいつも1202号室の分。ミスがないように細心の注意が払われる。
 1202号室の住人は、検事局内でその名を知らない者はない御剣怜侍上級検事。天才検事とも呼ばれる局内一のエリートだ。自分にも他人にも厳しく、朝もどの検事より早く出勤する。

 届けに行く職員が、もう一度その中身を確認した。御剣検事に毎朝届けられる新聞は、日本の一般紙3部と司法専門紙2部、アメリカの一般紙と専門紙が1部ずつ。それに加えて多種多様な郵便物と局内便。そして、沸騰したてのお湯の入ったポット。

「法律速報がありません!」 

 その事務職員が焦った声を上げた。法律速報は、検察や警察機関の情報を扱う刑法専門の新聞だ。

 御剣検事は、数分前に事務室の前を通り過ぎていた。もうあまり時間の余裕はない。
 この部屋はエレベーターと階段からすぐのところにあり、ドアがいつも開け放たれているので誰が出勤したかはすぐわかる。検事によっては中を覗き込んで挨拶してくれるが、御剣は無言で通り過ぎる検事の一人だ。

「あっ、こっちに2部あるわ!」

 先輩職員があわてて届けてくれた新聞を、一般紙の後に差し込み揃え直す。並び順もしっかり決められているし、乱れを嫌う検事なので、このフロアの中で一番気を使う。片手にずっしり重い新聞と郵便物の束を抱え、片手にポットを持ち、急いで1202号室へ向かった。廊下の一番奥のほうにある執務室まで運ぶのもノックをするのも一苦労だ。
 それでも、彼に届け物をするのは楽しい日課だった。なぜなら、彼は‥‥‥。

「おはようございます」

「おはよう」

 彼女が挨拶しても、顔も上げずに返事するのも御剣のいつも通りの姿だ。彼は登局早々から書き物をしているか、パソコンに向かっている。常に険しい表情で、眉間には年齢不相応な皺が刻まれている。―――だけど美しい。ヨーロッパの貴族のような純白のフリルタイ、ワインレッドのスーツが、彼の上品な顔立ちによく似合う。

 そう、彼は、検事局女性職員の憧れの存在。ここに日常的に出入りするのは、12階事務職員だけに許された特権だ。

 彼女は新聞の束を執務机の上に、できるだけ音を立てないようにそっと置いた。もし誤って大きな音を立ててしまうと、御剣の眉間の皺が一瞬、深くなる。

「紅茶をお淹れしましょうか?」

 彼女は毎朝必ず聞く。だいたいは「結構」と言われるが、ごくたまに「頼む」と言われる。そんな時は、ポットを持って窓際の棚まで静かに歩いて行き、そこに備えられた茶器で紅茶を淹れる。イギリス製の超高級品という噂の、優美な装飾の施されたティーセット。

 朝はいつも、決まったブランドの決まった茶葉だ。それでも尋ねる。「いつもの紅茶でよろしいですか?」と。ああ、という彼の声を聞きたいから。
 彼女はずっと、「一緒にいかがかな」と言われる日を夢想してきた。だけど、今までたったの一度もない。自分の名前を憶えてもらったのかもおぼつかない。

 その朝、紅茶は「結構」だった。彼女はいつもより、ひどく残念に思う。

「御剣検事」ドアに戻る途中、思い切って彼女は声をかけた。
「なんだろうか」
 彼はそう言うが、視線は書面に向けたままだ。
「私、本日で退職です。お世話になりました」

 御剣は、やっと顔を上げた。
「そうか」
 鋭く、澄んだ瞳が彼女の目をまっすぐに見る。彼は僅かに片方の口角を上げて言った。「こちらこそ世話になった」
 それから、またすぐに目を机上に落とす。



次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ