剣と虹とペン

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 いつになくスピードを出す御剣の車を死にもの狂いで追って来た奈理は、自分の足で走ったかのようにはぁはぁ息を切らしながら車から降りた。思った通り、彼が向かったのはひょうたん湖だった。

 車から降りた御剣は湖畔まで急ぐ。さっき検事局から持ってきた茶封筒を手にしていた。午後も遅くなった公園内は人がまばらで、バンドーランドほど安全ではなさそうだ。奈理は眼鏡をかけ、さらにマスクもつけた。散歩しているフリをしながらぶらぶらと近づいて行く。

 とのさまんじゅうの屋台が先週と同じ場所にあり、その先にはひょうたん湖の水辺に降りられるなだらかな斜面があった。湖の波打ち際にはあのオレンジジャケットの茶髪男がいた。小学生ぐらいの女の子と一緒に湖に向かって交互に石を投げて遊んでいる。

 茶髪の男はおそらく矢張政志。
 やっと読み終えた裁判記録にちょくちょく登場する、御剣のもう一人の幼馴染だ。だとしたらあの親しげな口調の説明もつく。3年前から変わらずあの屋台でバイトしているようだ。
 隣の女の子はピンクのシルクハットを頭に乗せ、同じ色のマントを風になびかせている。小さいのに一人前のマジシャンのような格好だ。矢張より上手に石を投げ、水しぶきが遠くまで跳ねた。

「よぅ、御剣」
 矢張が気づいて声をかけるのが聞こえてくる。

 その声に、近くのベンチに座っていた黒っぽいパーカの男も振り返った。無精ひげが見えるがニット帽を目深にかぶって表情はよくわからない。御剣はそのベンチに歩いて行き、男の隣に座った。ベンチの目の前には湖を囲む鉄柵があり、その向こうにさざ波の立つ湖面が広がる。
 奈理も見張れる場所に腰を下ろした。


 女の子は時々水辺から「パパ!」と声を上げてニット帽の男に何かをかかげて見せ、男がその度に優しくうなずく。

(誰だあの親子‥‥‥)双眼鏡を覗き込みながら奈理は思う。

 ベンチの男達は湖面を見たまま、何か会話をしているようだが2人とも声が低くて何ひとつ聞き取れない。御剣はニット帽のほうを向いて、強く言いつのっているようにも見える。しかし男は前を向いたままで、御剣とは目を合わせようとしない。さらに御剣は茶封筒から白い紙を出して示し、それを渡そうとするが男は首をゆっくりと振って受け取らない。
 やがてニット帽の男は立ち上がった。

「みぬき〜、帰るよ」
 男が女の子の方に歩いて行きながら声をかけるのが聞こえてくる。よく通る穏やかな声だ。

「成歩堂ッ!!」

 御剣も立ち上がって叫んだ。


 ―――成歩堂!? 成歩堂龍一!?

 3年前に御剣を救い、無敗の歴史を作り、そして今年突然弁護士を辞めたあの人? 青いスーツのギザギザヘアの? 子供いたんだっけ‥‥‥?
 奈理は写真を撮ることも忘れて、成歩堂と呼ばれた男を双眼鏡で追う。

 ピンクのマントをはためかせて斜面を駆け上がってきた女の子を、成歩堂は微笑んで迎えた。手を引かれて立ち去りながら少女は、振り返って矢張と御剣に順番に手を振る。成歩堂は振り返りもしなかった。


 御剣は片手を上げて応え、父娘が去って行くのを立ったまま見送った。矢張は屋台の店じまいを始め、女の子の笑い声が遠ざかる。矢張は手際よく仕事を終えると、御剣に、じゃあな!と声をかけ、ズボンのポケットに手を入れ軽い足取りで出口に向かった。


 一人になった御剣はさっきまで座っていたベンチに荒々しく腰を下ろした。
 彼の背の向こうには色濃くなってきた湖面が広がっている。御剣はしばらくじっと前方を見ていたが、いきなり片膝を上げて目の前の鉄柵をガッと強く蹴った。
 鉄柵がきしむ鈍い音が響く。
(わっ‥‥‥)
 奈理はその音にドキッとする。なんか知らないけどすごく怒ってる‥‥‥。

 それからまた彼は静かになった。

 双眼鏡ごしの御剣の背中はすぐそこにいるようによく見える。広い肩、襟元、整えられた髪、寝癖が一つ‥‥‥。



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