剣と虹とペン

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「君、次の週末こっちに来れるね」
「あ、はい」
「そのとき話し合おう」
 奈理は、編集長の淡々とした口調に今まで以上に悪い予感がした。


 ◇ ◇ ◇


 翌日。検事局1202号執務室に御剣の無愛想な声が響く。
「それじゃない。下から3段目の2Aボックスだと言っているだろう」
「は、はい」
 壁際にずらっと並んだ書棚の前に立っている奈理は、出しかけた3Aと記されたファイルボックスをあわてて棚に押し込んだ。

 彼女は午後から御剣に呼ばれて執務の手伝いをさせられていた。昨日尾行がバレたばかりで、今日はあまり顔を合わせたくない気もしたが、どっちにしろ彼はこちらの顔はほとんど見やしないのだ。

 2Aボックスを執務机まで運び、今度は机の上にあったボックスを棚に戻す。さっきから御剣に言われるがままその繰り返しだった。御剣はボックスの中からファイルを取り出しては机上の書類と見比べ、万年筆で何かを転記している。過去の事件の情報を整理しているようだ。

 次の指示があるまで、彼女は棚の前に立ってじっと待つ。執務机に向かう御剣の横顔は仕事に集中した厳しい表情だ。繊細で品のある顔立ちには、過去に苦労を重ねた痕跡はみつからない。眉間の深いシワ以外は。

 この1か月、御剣を観察してわかったのは、彼が生活のほとんどの時間を職務に費やしているということだ。3年前の事件の後、一時失踪したという記事も読んだけど、仕事を放り出すなんて今のこの姿からはとても信じられない。そのあと検事局に復帰して数か月で、また天才検事の名を取り戻した。検事としての能力はおそらく並外れているのだろう。

「次! 2B」
「はい」
 奈理は棚に向き直る。2Bのファイルボックスを引き出そうとしてその背に広がる茶色い染みに気づいた。

「なんだかこのボックスずいぶん汚れてますよ。おしょうゆでもはねたみたいに‥‥‥。今度お取り替えしましょうか?」
 ミスが続いている今は気が利くところ見せてポイントを稼がなくては。先輩の教え通り。

「しょうゆではない。血痕だ」
「え? けっ‥‥?」
「血の跡だよ」
「血っ??」
「そこで人が殺されたのだ」御剣はさらりと言う。
「ど、どこで!?」
 奈理は怯えてキョロキョロとあたりを見回した。

「キミの立っている足元だよ。そこが死体のあった場所だ」
「‥‥‥!」
 彼女はとっさに足元を見る。木目にうっすらしみ込んだ茶色い染みが見えたような気がした。

「キャアッ」
 奈理は悲鳴をあげ慌てて飛びのく。するとそばにあったチェステーブルに体がぶつかった。テーブルがバターンと大きな音を立てて倒れ、上に乗っていた赤と青のチェス駒が勢いよく飛んで壁に跳ね返る。
「うおおっ」また御剣は顔に似合わない声を上げた。

「すみませんっ!」
 奈理は転がって行ったテーブルを慌てて起こし、跳ねた駒を拾う。赤い駒はチェステーブルの下敷きになっていた。

「大丈夫かね」御剣は呆れたように言う。
「はい‥‥あぁっ! なんかこの赤い馬みたいなの、真っ二つに割れちゃいました‥‥‥」
「な、なんだとォ?」
 執務机の向こうで御剣がコブシを握りしめ目を剥いていた。

「ごごごめんなさいっ!! せ、接着剤でくっつけて来ましょうか?」初めて見る御剣の表情に、奈理もうろたえて言った。
「ぐぬぬ‥‥その駒は特注‥‥‥」
「え? とく‥‥‥?」
「ああもういいから仕事を続けたまえ!  2Bボックス!!」
「はははいっ」

 そのあと御剣は端正な薄い唇をきつく閉じ、ムスッとしたままファイルボックスの番号以外は一切口を開かなかった。

 やっぱり怖いしほんと苦手だ‥‥‥。とても御剣にはなじめそうもないと奈理は思う。それにしても失敗が続きすぎる。きっと疲れてるんだな、週末はゆっくり休まなきゃ‥‥そう考えて彼女は思い出したくなかったこと‥‥編集長に呼ばれていたことを思い出した。

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