剣と虹とペン

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 あくる週の月曜日、御剣はいつも通りどの検事より早く執務机に向かっていた。
 さっそく、午後の法廷で提出する証拠品リストと供述書の照合に取りかかる。効果的にムジュンをつきつけ審理を有利に進めるためには、この手続が不可欠だ。複雑だが慣れた仕事であり彼は難なく集中することができる。

 ほどなく扉がノックされ、入口あたりに立つ事務職員の「おはようございます」という小さな声が聞こえた。執務の邪魔にならないよう、ここに来る職員の声のトーンは常に抑えられている。原則としてだが。
「おはよう」
 毎朝毎朝、同じように繰り返されるやり取り。彼は今までそれに意識を向けたこともなかった。しかし今日はなぜか万年筆を持つ手が止まる。

「失礼します」
 足音が目の前まで近づいてきて、女性が新聞の束をそろそろとデスクの端に置いた。きわめて静かでスムーズだ。問題ない。スクワットの成果がもう出たのか。御剣は自分でも思いがけず、ふっと笑みをもらす。

「上手くなったな」
 彼はそう言いながら顔を上げた。
「えっ?!」
 初めての言葉に、目をみはって絶句する事務職員の姿があった。長くここにいるベテランの職員だ。

「あ、あなたか。いつもの彼女は?」
「今、別の仕事をしています」
「‥‥そうか」
「糸鋸刑事から聞きました。不手際が多くてお困りのようなので、担当を変えたほうがいいと思いまして」
「う‥‥ム‥‥。そうだな‥‥」

(あの男、無駄に仕事が早いな)

「どうかしましたか?」
 しばし考え込む御剣に彼女は問いかける。
「いや‥‥」


「では失礼します」 
 彼女はわずかな時間で仕事を終え部屋を出て行こうとする。
 御剣はドア口の彼女に向かって思わず叫んだ。
「待ったッ!」

「な、なにか?」事務職員は突然呼び止められ当惑した表情で振り返った。
「もう少し、その‥‥彼女が慣れるのを待つとしよう」
「あ。はい」
「まだひと月だからな」
「了解いたしました」
 ベテラン事務職員はおじぎをして執務室のドアを閉めた。


◇ ◇ ◇


 奈理は自宅に帰ると、放置してあったファンタジックな装丁の参考図書を手に取った。
 今日朝一で御剣の担当を外される話をされたと思ったらすぐ撤回されて、何というか複雑な心境だった。先輩はなにかの手違いと言ったけど、カフェテリアでの会話からいってそうは思えない。先輩がかわりに御剣に謝って、担当を外さないように頼み込んでくれたのかもしれない。

 彼女は数冊の本を流し読みし、その中の『距離のあるカレと親しくなるメソッド』という章を一通り実践してみることにした。
 好きにさせたり深い関係になるなど、結論から言えば無理に決まっている。無理に決まっているが、やるだけのことはやったと報告しないと編集長は絶対に納得しないだろう。しばらくやってみて自分には実現不可能な任務だとわかってもらうしかない。会社を立て直す方法はきっと他にもあるはずだ。


 最初のメソッドはいきなりハードルが高い。ずばり、“何気ないボディタッチ”。男性の本能にダイレクトにアピールする接近法らしい‥‥。

 しかし、次の日からしばらく御剣は出張で検事局にはいなかった。



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