剣と虹とペン
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どれぐらい経ってからだろうか、ふとノックの音が聞こえた。
なかば眠り込んでいた奈理はビクッとして闇の中で目を覚ました。ドアがかちゃりと開いて、静かな足音が室内に入ってくる。
彼女が目をぎゅっと閉じていると、ベッドの端が何かが乗ったよう沈み込んだ。
(えええっ!? まさかここで寝るの? もう1つベッドあるって言ってなかったっけ?)
その重みは奈理の体のほうにゆっくり近づいてくる。恐怖のような得体のしれない感情で、奈理の心臓は早鐘のように鳴り出した。
重みは彼女のすぐそばまで来たかと思うと、頭まですっぽりかぶっていたアッパーシーツがそっとめくられた。
(こここここ殺される!!)
奈理は大パニックになりながら必死に寝顔を作った。一瞬後、シーツはまたそっと戻された。そしてベッドの重みはすっと消えて行った。
ドキドキドキ‥‥‥。彼女の心臓の鼓動は治まらない。
そのあとクローゼットを控えめに開け閉めする音が聞こえ、入って来たときと同じように静かに足音が去りドアが閉まった。
奈理はふうぅっと震える息を吐いた。彼が自分の寝顔を見たいはずもなく、泥酔していると思われて安全確認をされたのだろう。なにしろ彼はいろんな事件事故に遭遇する捜査機関の人間だ。それにしても心臓に悪い。彼女はあまりにドキドキしてこのまま眠れないと思っていたが、緊張が弛緩した頃にまた睡魔に襲われていた。
夜中にはっと気づいて腕時計を見ると、針は3時近くをさしていた。御剣もさすがに寝ただろう。今のうちにこっそり帰ろうと思った彼女は、リビングに置きっぱなしのコートとバッグを取るため寝室を出た。
リビングは明かりが消され、柱時計の振り子の音だけがやけに大きく聞こえてくる。ひんやりとした空気が通り過ぎた。
(!?)
奈理は目の前の光景にはっとして足を止めた。
暗い部屋の中で御剣が窓を開けて立っていた。
天井から下がるカーテンが風を含んで揺れている。白っぽいパジャマに丈の長いガウンのようなものを羽織り、彼もまたベッドから抜け出して来たような姿だった。
何してるんだろう‥‥‥眠れないのかな‥‥‥。
彼の輪郭は夜の青白い光にぼんやり縁取られ、いつも堂々としている背中が闇に溶け入りそうに儚げに見えた。
―――遺書を書いて失踪したことがある。
ふと編集長が言っていた言葉を思い出して、奈理はぞくっと身震いする。
名前を呼びたい‥‥‥‥彼女はそう思うが、できなかった。そして、そっと足を忍ばせて寝室へ戻った。
彼女が次に目覚めたとき、太陽はすっかり登って明るくなっていた。
まずいと思いつつ洗面を借りて身支度を整え、しわくちゃな服をなんとか伸ばして人の気配のするリビングにそろそろと入って行く。御剣はすでに赤いスーツを乱れなく着てダイニングテーブルについていた。土曜日だが今日も仕事に出るのだろう。紅茶の清々しい香りが漂っている。
「お、お、おは、おはようございます」御剣の自宅で朝を迎える、この異常な状況に彼女はまともに言葉が出て来ない。
「‥‥‥おはよう」
御剣はちらりとそっけない目を向け、低く応えた。
「あ、あの‥‥‥と、突然おじゃましたうえに‥‥‥申し訳ありませんでした」
彼女はリビングの入口に立ったまま深々と頭を下げた。
「紅茶でも飲むかね?」
御剣はそう口にするが、はいとはとても言えない冷たい声だ。
「いえ‥‥」
「私はもう出かけるが」
「あ。わ、わたしもすぐ出ますので」
「‥‥‥それから」御剣の薄い色の瞳がまっすぐに彼女を向く。
「は、はい」
「こういったことは非常に迷惑だ。自重したまえ」
静かな表情だがきっぱりと言われ、奈理は胸の奥がズキンと痛む。
「申し訳ありません」
彼女はもう一度謝った。ソファに昨夜のまま置いてあるコートとバッグを体を縮こまらせて取りに行く。最後にまた頭を下げると、玄関から飛び出した。
終わった‥‥‥。これで任務は終了だ。
御剣のマンションを出ると、尾行のために契約していた駐車場が目に入った。毎週末ここで、あの人の赤い車がカーゲートから出てくるのを長いこと待っていた。今、急にそれが懐かしくなる。もうこの場所に来ることは二度とないのだ。
さよなら、天才検事‥‥‥。待ち望んでいたことのはずなのに彼女は少しも嬉しくなかった。
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