剣と虹とペン

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 澄みわたる青空のさわやかな朝だった。
 それとは裏腹な気分で、奈理は御剣宅からトボトボと帰って来た。自室に着くなり編集長に報告の電話を入れる。
「お疲れさん。よくそこまでやってくれたな」
 御剣に怒られただけで何ひとつ起きてないのに、編集長は満足げにあれこれ聞いてくる。

 彼女がいよいよ“惚れさせる”作戦の限界を訴えると、相手は意外なほどアッサリともう終わりでいいと言った。
「‥‥‥じゃあそろそろ退職の話をしたほうがいいですよね」
「待て待て。そう焦るな」
「でも、この作戦が最後に残された道とか言ってませんでしたっけ?」
「それはそうだが、もう少し時間をくれ。とりあえず今回のことをこっちで記事にするから」
「えぇっ。記事に?」
「そうだ。面白い話じゃないか」
「‥‥‥」
 彼女はひたすら悪い予感がした。


 ◇ ◇ ◇


 月曜日の朝、奈理は検事局にも同じようにトボトボと出勤した。
 あんなことをしでかしてしまった以上、今度こそ担当を外されると覚悟していたが、いつものように1202号室の届け物を任された。

 執務室の御剣は、あの夜の前も後も何一つ変わらなかった。
 彼女が入って行っても何事もなかったようにデスクに向かっている。目の前に、自分の寝室で夜を明かした女がいるということなんか、まったく忘れ去ってしまったようだ。

(変わったのは自分のほうかも‥‥)

 彼のそばにいると、今までになく落ち着かない。陽の光に輝く髪や、デスクの上になにげなく置かれた大きい手や、彼の寝室でも感じた香り‥‥‥今まで気にもならなかった、ちょっとしたことにいちいちどきっとする。
 あの夜のことをまた謝ったほうがいいのか、もう触れないほうがいいのかもわからないまま、彼女はうつむき気味に執務室を出た。
 

 その日の午後遅く、事務室で一人になった奈理は家から持って来た法律速報をデスクの上で開いた。新聞は入稿から印刷までそんなに時間をかけない。編集長が昨日さっそく記事を書いていたら今日には掲載されているはずだ。
 紙面を何枚かめくると、『人気検事の華麗な私生活』という見出しが目に入ってぎょっとする。

(なにこれ‥‥‥)
 ぼかしてあるが読む人が読めばすぐ御剣だとわかるような文章だった。高級マンション住まいの有名検事、そこから朝帰りする女性‥‥‥贅沢で放埓な暮らしだと揶揄する内容だ。こんな生活で、泥臭く地道な検察の仕事がまっとうできるのかと批判し、女性スキャンダルとそれに絡む経費流用で問題になった検事と並列に語られている。

(誰よりも仕事中心に生活してる人なのに、こんな記事‥‥‥)
 いくら会社に後がないとはいえ‥‥‥奈理の心に割り切れない思いが広がる。


「その記事を読んだのか?」
「わっ!!」
 背後から声をかけられて、奈理は声を上げた。あわてて椅子を回転させて振り返る。御剣が事務室の入口から一歩入って立っていた。
「み、御剣検事もこれを‥‥?」奈理は彼を見上げて言う。
「ああ」
「わ、わたしのせいです‥‥‥すみません!!」
 彼女はとっさに謝った。謝ったあとで、自分がリークしたとバレるのでは?という恐怖に襲われる。

「いい加減な情報で記事にされるのは、よくあることだ。気にするな」彼は淡々と言った。
「え‥‥‥」
「矢張が‥‥‥あの茶髪のオトコがどこかでしゃべりでもしたのだろう。アイツが絡んで記事になったことは何度もあるからな」
「‥‥‥そっ‥‥そうなんですか‥‥‥」
 彼女は矢張にも申し訳ない気持ちになり、内心冷や汗をかく。

「そんなことより頼みがあるのだが」
 そう言って彼は手にしていた茶封筒を奈理に示した。歩いて10分ほどの地方裁判所までその封筒を届けてほしいらしい。
「大事な書類だから慎重にお願いしたい」
「了解しました」
 彼女は椅子から立ち上がりその封筒を受け取った。編集長なら中身を盗み見たがるところだろうが今彼女はとてもそんな気にはなれなかった。



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