剣と虹とペン

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 徹夜した朝、いったん家に帰った奈理はなんとか眠り込まず出勤できた。
 その日、彼女が12階に着く前から御剣はずっと裁判所に詰めていて、顔を合わせることはなかった。徹夜明けであろうと、彼には情け容赦なく予定が入っている。

 太陽が高く昇るにつれ、一睡もしていないなりに彼女の頭も冷静になってきた。何か月も遅れて誕生日をお互い祝うなんて、やっぱり変な話だ。なぜあんな提案をしてしまったのか。そしてなぜ彼は承諾したのか。奈理は早くも、あの話が実現するとは思えなくなってきた。徹夜した勢いというか社交辞令というかそんなものだきっと‥‥‥。

 しかし、奈理は知らなかったが、御剣は約束を守る男だった。
 午後、彼は裁判所から帰るなり内線で彼女を執務室に呼んだ。そして日時を決め、彼女のリクエストを聞き、レストランに予約を入れると言ってくれた。ただそのやりとりは淡々としていて、あたかも仕事のような段取りのよさだった。
 そう。彼にとってこれは昨夜のお礼でしかない。手早く片付けておきたいのだろう。

(こっちだって仕事だ)
 これでまた編集長に報告できるネタが増えた。奈理はそう自分に言い聞かせた。そうでもしないと、未知の気持ちの渦に飲み込まれてしまいそうだった。


 ◇ ◇ ◇


 その週の土曜日の夕方、御剣が待ち合わせ場所に指定したのは高級ホテルのロビーだった。
 奈理は早めに着いたつもりたったが彼はすでに待っていた。仕事帰りだろうか、いつもの赤いスーツを着ている。ソファに腰を沈めて足を組み、サイドテーブルにある陶器製のスタンドの灯りで本を読んでいた。

 御剣が自分を待ってあそこに座っているのだと思うと、奈理の心臓が大きく脈打つ。
(これは仕事だ。記事のために会うんだ)
 彼女は心の中でまたそう呟き、必死に胸の鼓動をなだめた。
 

 震えそうになる足を踏みしめて歩いて行く。ロビーは照明が落とされていて、目を伏せた御剣の顔がランプのやわらかい光にぼうっと浮かび上がって見えた。その白い顔は、遠くから見ても、そしてこうやって近づいて行っても切なくなるほど端正だ。

 目の前に立って「お待たせしました」と声をかける。やっぱり声も少し震えていた。 
 彼は、ゆっくり本から顔を上げた。
 自分としては最高におしゃれしてきたつもりだ。だが彼は気づく気配もなく、目の表情もいつもと同じ冷静なものだった。彼は彼女を一瞥して「ああ」とだけ言って立ち上がる。

 彼は慣れた様子でエレベーターホールへ歩いて行った。さすがに仕事の時と違って、歩幅は彼女に合わせてくれた。
 小さいシャンデリアが下がった豪華なエレベーターに乗り込む。ゴンドラの壁はキラキラした花柄の装飾がほどこされ、奥にはベルベットの小ぶりな長椅子が置いてあった。まるでお屋敷の小部屋のようだ。

「このエレベーターはいい。忘れさせてくれる」独り言のように御剣は言った。
「忘れさせる? 何をですか」奈理は彼の顔を見上げた。
「これがエレベーターであることをだ」
「はあ‥‥」

 御剣は最上階のボタンを押した後は、天井のシャンデリアをじっと見ていた。色素の薄い瞳の中に光が煌めくのを、奈理は吸い込まれるように見つめる。彼女ははっと我に返って目を逸らすが、彼はその視線を全く気にしていないようだった。

 エレベーターで上階に運ばれる間に、ますます緊張が高まってくる。なんでこんな店をリクエストしてしまったのだろう。いや、わたしはこのホテルのレストランをお願いしたわけではない。大きい窓があっておいしい料理が食べられる店と言っただけだ。

 そこは間違いなく大きい窓のあるレストランだった。二方向が天井から床までの窓になってその向こうに夜景が広がっている。遥か下に見える道路は輝く川のようだ。上品な雰囲気の人々が静かに語らい、その間を姿勢のよい給仕が音もなく動いている。



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