剣と虹とペン

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「わたしの名前、覚えて下さい」
「なんだと‥‥‥?」彼は面食らった顔で彼女を見つめ返した。
「わたしの名前、わかりますか?」
「う‥‥‥確か‥‥‥」さっきよりさらに焦っている。「す、すまん。名前も知らずに食事するなど失礼な話だった」
 
 見たこともない困り果てた御剣の顔に彼女は小さく吹き出す。
「次野奈理です」
「う、うム。次野奈理さん、だな」
「はい」
 彼女は笑顔でうなずき、字を説明する。「忘れないで下さいね」
「了解した」
「それだけでいいです」
「‥‥‥‥‥」

 奈理はケーキを口に入れた。
「すごくおいしいですよ! これ」
「だから、そういうわけにはいかないと言っているだろう」
 御剣は低い声で言った。かなりムッとした顔をしている。
「あ‥‥‥はい」
「ただ私は贈り物を選ぶのが苦手だ。今度一緒に買いに行こう」
 こうと決めたら有無を言わせない、いつもの御剣の口調だ。
「わ、わかりました」
 奈理はこくりとうなずいた。


 ◇ ◇ ◇


 翌日の日曜日、彼女は編集部に顔を出した。最近、編集長は休日でもほとんど一日中会社にいる。がらんとして静まり返った中に一人、窓を背にしてデスクについていた。
 奈理は、一番奥にあるそのデスクの前に椅子を転がしていった。さすがに誕生会をしたとは言えなかったが、御剣と2人で食事に行ったことを報告すると、「思った通りだ」と編集長は言った。

「どういうことですか」
「君は自由にやらせたほうが、いい働きをする」
「え」
「御剣がソノ気になってくればもっと情報が引き出せるな」

「ちょっと待って下さい。ソノ気にってあの作戦はもう終わったんですよね? 本社にもそう言ってるんじゃないんですか?」
 本社という言葉を出すと、編集長の顔色が変わる。
「ヤツらは面白い記事をあげて部数が伸びればそれでいいんだよ。どんな作戦だろうが関係ない」
「‥‥‥」

 奈理はやっと気づいた。あの作戦は本当は中止でもなんでもなかった。編集長が最近あまり指示を与えなかったのは、わたしがもっと自然に御剣に近づくように方針を変えただけなのだ。編集長はどうすればもっとわたしを効果的に動かせるかわかったのだろう。

 彼は追い打ちをかけるように言う。
「状況は刻々と変わるんだよ。今は君が想像する以上に深刻だ。君の1年前に入った記者が先週、本社命令でクビになった」
「えっ!」
「まともな記事が出せなければ、誰でもそうなる可能性がある。わかっただろう。こっちが今どんな状況か」

「‥‥‥はい」彼女は小さく応えた。
「それから、一つだけ言っておく」
「なんですか」
「ミイラになるなよ」


 古い木の扉を開けて通りに出ると、乾いた冷たい風が吹き付けてきた。
 わたしはミイラ取りのミイラになんかなっていない。御剣が想像していたよりいい人だったからちょっと驚いてるだけ。ただそれだけだ。
 奈理はコートのボタンを留め駅への道を急いだ。

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