剣と虹とペン

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 その日の昼休み、検事局の中庭に出て奈理はやっと編集長に電話をかけた。仕事中だというのに朝から何度も着信があり、この時間がたぶん許される限界だった。

 出るなり、編集長は言った。
「また御剣の家に泊まったのか!?」
「と、泊まるわけないですよ!」
「じゃあなぜ昨日は電話に出なかった」
「ちょっと熱っぽくて電源切って寝てました」奈理はあらかじめ決めておいた言い訳を言う。
「‥‥‥で、どうだったんだ。土曜日は」
「いえ、別にこれといったネタは‥‥」

 編集長はしばらく様子を伺うように沈黙してから、断言した。
「嘘つけ。何か聞いたな」
「えっ。た、大したことは聞けてませんってば」
「自分が何のためにそこにいるのかわかってるのか!!」
 怒声がキーンと頭に響いて、奈理はとっさに携帯を耳から離す。

「ほほほんとに、記事にはならないような話ですから」
「それはこっちで判断する。どんなネタだ」
「御剣のプライバシーに関することだし、出したら逆にうちが危険かもしれないし‥‥」
「御剣は公人だ。プライバシーは気にしなくていい」
「でも家族のことで、まったく公人としての内容じゃあ‥‥‥」

「家族? 御剣信のネタか。いいじゃないか。今月末でひょうたん湖の事件から丸3年になる。DL6号事件とセットで特集を予定してるからタイミングはばっちりだ」
「違います。父親じゃなくて母親の‥‥‥‥‥‥‥あっ」
「何!?」編集長の声が高くなる。

(マズイ!!!!)奈理は焦った。

「母親だと!? そりゃ尚更いい!! 母親の話ならちょっとしたスクープになるぞ。とにかくすぐに書け!!」
「か、書いたら間違いなくわたしだとバレます。ここにいられません」
「ああいい。活字になる前にちゃんと引き揚げさせてやるから」
「‥‥‥‥‥‥」
 奈理は携帯をぎゅっと握りしめた。そして声を絞り出す。「‥‥‥絶対、記事になる前にですよ」
「わかってる」

 奈理は電話を終えると、中庭のベンチに座って文字通り両手で頭を抱えた。
 御剣が話してくれたのは、これまでマスコミには一度も出なかった彼の家族の秘密だ。母親のことであると同時に、彼の検事としての来歴や狩魔家との関係にかかわる内容でもある。公益性はないものの、有名な天才検事の隠された過去が世間の関心を呼ぶのは明らかだ。

 この話が世に出てしまったら、彼はその立場上、いろんな意味でのダメージをこうむるだろう‥‥‥。
 だから報告についてはよく考えてから決めたかったのに、編集長に1回怒鳴られたぐらいであっさり言ってしまった自分が本当に情けない。奈理は昼食も取らないまま、休み時間が終わるまで吹きさらしのベンチに座って頭を抱えていた。


 翌日の火曜日も、早朝から編集長の矢の催促が続いていた。奈理はまた昼休みに連絡を入れる。
「早く原稿を持ってこい。今日帰りに来い」
「いや‥‥まだ書き上げてなくて‥‥‥」
 今日は編集長は怒鳴らなかったが、低い声で言った。
「スクープを取れないなら、もう1人記者を減らせと本社から言われている」
「えっ」
 冷汗がじわりと携帯を持つ奈理の手ににじむ。

「そうやってグズグズしていると、また同僚がクビになるんだぞ!? 今度の候補は3年目のあの記者だ。妻子持ちのな」
「‥‥‥‥‥‥い、今書いてますから!!」
「紙はあとでいいから、書き上げたらすぐメールでデータを送れ」
「き、今日中に仕上げて、明日には送ります」
「遅い」
「明日には必ずっ!!!」
 

 彼女は必死に言ってやっと電話を切った。
 編集長は今まで、必ず紙で原稿を見たがった。データでいいなんて言われたのは初めてだ。これまで以上に彼は焦っている。そしてこっちの腰が引けてるのにも気づいている。
 
 冷静に考えて、記者として潜入で得た情報を書かないなんて許されるわけがない。ましてや、同僚がわたしのせいで職を失うなんて‥‥‥。
 でも、これが記事になったら、御剣の秘密は何万人という人の目に触れてしまう。

 (どうしよう‥‥‥)
 途方に暮れて涙がじわじわと込み上げてくる。なぜ彼はこんな大事な話をわたしなんかに‥‥‥。
 その日、涙目のまま自宅に帰った奈理は、頭の芯が痛くなるまで考えたが、どうしたらいいのか結論は出せなかった。

 (つづく) →17へ


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