剣と虹とペン
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その翌日、水曜日。
奈理は検事局からまっすぐ家に帰ることができなかった。不本意な報告をしてから2日、御剣との食事からはもう4日目だ。帰れば今夜中に原稿を書き上げ、メールで送らなければならない。御剣にダメージの少ない内容に取り繕えないかとも考えたが、編集長の敏感さと余裕のなさを考えると、そんなことをしたらよけいにひどい記事にされそうでそれもできない。
彼女は帰ることから逃れるように、検事局のある朝日通り沿いの喫茶店に立ち寄った。もとは吐麗美庵というフランス料理店だったが、去年この店で殺人事件が起きてから改装されたらしい。いわくつきの店だがそのせいかあまり混まないので、ときどき利用していた。
4人掛けの席に案内されてひと息つくと、隣のテーブルに座る若い女性の姿が目に入った。長い黒髪で頭の後ろに小さいおだんごを結っている。装束のようなあの紫の羽織と、胸に下がる勾玉はどこかで見たような気がする‥‥‥。奈理は記憶をたどった。
女性の前髪は目のすぐ上で切りそろえられていて、その下のくりくりした大きな瞳が、扉がベルの音を立てて開くたび、そちらを向く。誰かと待ち合わせなのだ。
奈理はバッグから取り出した法律速報の見出しを眺めつつ、なかなか誰だか思い出せない女の子についてぼんやり考えていた。
するとその彼女がいきなり「みつるぎ検事、こっちです!」と叫んだ。奈理の後ろ側にある入口に向かって大きく手を振っている。
奈理は驚きのあまり体を硬直させた。背後から足音が近づくと、あわてて手にしていた新聞を掲げ顔を隠す。奈理の隣を赤いスーツの男が通り過ぎ、女の子の席の前に立った。見慣れた広い背中と、乱れのないグレーがかった髪。
御剣は立ったまま、「お待たせした」と片手を胸に置いて一礼する。
奈理もたまに見かける彼の正式なお辞儀のスタイルだ。もちろん、奈理に向かってそれをしたことは‥‥‥一度もない。
彼女は、御剣にとって特別な人なのだろうか‥‥‥。
「そのポーズ懐かしい!!」
女の子は両手を胸の前で合わせて、にっこり笑った。
「真宵くんのそのポーズも十分懐かしい」
(マヨイくん‥‥‥ああ!)
奈理はやっと思い出した。綾里真宵。弁護士だった成歩堂の助手をしていた人物だ。編集長から渡された資料にも、事件がらみで何度か登場していた霊媒師の女の子。小さい写真だったから印象にあまり残っていなかった。
御剣は真宵の向かいに腰を下ろした。奈理には背を向ける形だ。
真宵にかけた彼の声は、笑いを含んだとても親しげなものだった。そのあと二言三言交わす言葉も打ちとけた雰囲気だ。
御剣は、新聞の脇から覗く奈理に横顔を見せて紅茶を注文した。そのあとは、真宵が身振り手振りで話すのを頷きながら聞いている。
初めのうち普通に話していた真宵は、とつぜん両手で顔を覆って肩を震わせ始めた。
(えっ!?)
奈理が顔を隠すのも忘れて見守っていると、御剣は内ポケットから出した白いハンカチを真宵にそっと差し出す。彼女はそれを受け取って目にあてるとさらに嗚咽した。
極めてただならない感じだ。奈理は心臓がバクバクしてくる。声がよく聞こえないので、我慢できずにもっと近く、御剣と背中合わせの場所にそろそろと移った。これは取材だと自分に言い訳しながら聞き耳を立てる。
「あたしもう信じられないよ‥‥‥」
真宵にそう言われ、御剣は黙っている。
「‥‥‥のことだって、何の相談もなかったし」
奈理は背中側に神経を集中するが、真宵は泣いていてところどころよく聞き取れない。
「うム‥‥‥」
御剣は苦しげに唸ったきりまた押し黙った。奈理の原因不明の動悸はますます高まる。
「一緒にロンドンに行った時もそんなこと全然話してくれなかった‥‥‥」
「ああ」御剣が低く応えた。
一緒にロンドン‥‥‥!!! さっきは久しぶりに会ったような感じだったけど、やっぱり相当深い仲なんだ。奈理は自分でも信じられないほど動揺し、目の前が暗くなる。