剣と虹とペン

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 奈理は社宅に帰りつくと、部屋備えつけの小さな机に座りノートパソコンを開いた。次から次に湧き出てくる涙を拭いながら記事を書き始める。
 夜中までかかって仕上げた原稿はメールに添付し、編集長の宛名を入れた。送信ボタンを押せば、この原稿は即座に届いてしまう。もう引き返せない。指が震える。

 彼女は不意に、編集部の会議室で初めて御剣の写真を見せられた時のことを思い出した。
 法廷に立ち、背筋を伸ばして正面を見据えた姿。あの時、その端正な顔立ちのせいかひどく高慢に映ったけれど、今はわかる。あれは強い意志に満ちた表情だったのだ。彼は強い人だ。どんなことがあっても乗り越えられる人‥‥‥。

 フルフルと手を震わせたままどれだけ迷った後か、彼女は再び、キーボードを打ち始めた。編集長あての文章を「明日持って行きます」と書き変え、添付していたファイルも削除する。

 ―――あと1日だけ待って下さい。

 彼女は心の中で祈るように言った。
 それから原稿のデータをメモリに落とし、いつものように印刷もした。携帯電話の電源はとっくに切ってあった。


 ◇ ◇ ◇


 翌日、木曜日。
 夕方になるにつれ、奈理は鎖につながれたような無力感にとらわれていった。
 原稿を出すしかもう選ぶ道はなさそうだ。出してしまえば編集長が念入りに手直しして、おそらく数日中に記事になるだろう。いよいよ検事局を去る日が目の前に迫っている。急に辞めることになって先輩にも申し訳ないが、そうするしかない。

 先輩が先に帰った後、奈理は自分に与えられていた事務机を片付け、きれいに拭いた。カギのかかった小さいロッカーを開けバッグとコートを取り出す。バッグから原稿を入れた茶封筒が少し覗いていた。それを見ると、昨夜記事を書いた時の苦しい気持ちがよみがえってくる。

 事務室を出る前、彼女は初めてここに来たときのように窓際に歩いていった。空には夕闇が垂れこめようとしていた。ひのまる漁港の遠く小さな光をしばらく眺める。3ヶ月にも満たない期間だったが、この風景すらも胸が痛くなるほど名残惜しい。


 奈理は検事局を後にすると、ゆっくりゆっくり駅までの道を歩いた。さっき、これから行くと連絡したら編集長はじりじりと待っていた。本当はもっと引き延ばしたい。もっともっとずっとずっと先まで‥‥‥。

 裁判所前の大通りを歩いているとき、突然、後ろから女性の悲鳴が聞こえた。
 振り返ると、10メートルほど後方で女性が怯えたようにバッグを胸に抱きしめていて、広い歩道に乗り上げた1台のバイクがこっちに向かっている。

(あのヘルメット!!!)
 奈理はバイクの男に見覚えがあった。とっさにバッグを守ろうとしたが一瞬遅かった。男は器用かつ強引に、彼女の腕の中から原稿の入った茶封筒だけを抜き去った。

「ちょっと!!!」

 奈理は今度は走って追いかける。しかしバイクは車道に降りるとあっという間に走り去って行った。

(同じひったくりに2回も合うなんて運悪すぎ‥‥‥)
 奈理はこの間とは違う、冷めた目でバイクを見送る。
 あの原稿は名前は伏せて書いてあるし、誰かの手に渡ったとしても小説の下書きぐらいにしか思われないだろう。もし気づく人間がいたとしても、その頃には何万もの目に触れる記事になっているはずだ。データの入ったメモリのほうはしっかりバッグに残されている。

(どうせならバッグごと持って行ってくれればよかったのに!)
 彼女はバイクに向かってそう叫びたかった。そしたら時間が稼げたのに。そして1日でも長く検事局にいられたのに―――。

 立ち尽くしていると、こんどは自転車のブレーキの音が響いた。振り返ると一人の警官が自転車を止めて、さっき悲鳴を上げた女性に声をかけていた。街灯に照らされた警官は自転車を押しながら、奈理の近くに来た。

「あの女性は被害はないみたいだけど、アナタは大丈夫?」
 その警官は、奈理が前回ひったくりに合ったとき被害届をだした交番の巡査だった。たまたま近くにいたようだ。
「大丈夫です」とっさに奈理は答える。
 警官は少しだけ怪訝な表情で彼女の顔を見つめた。
「わたし、急いでるので」
 奈理はまだ何かを話したそうにしている警官を振り切って編集部に向かった。

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