剣と虹とペン

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 前夜、編集部から帰ったあと一睡もできなかった奈理は、重たい頭を抱えて検事局に出勤した。
 事務室に入ると奈理の顔を見るなり先輩が声をかけてきた。
「次野さん! 今日で退職なのね。さっき担当の人から聞いてびっくりしたわ」
「は、はい。急な事情で‥‥突然すみません」
「来週から新しい人が1人来るとは言われてたんだけど、あなたの後任だったのねえ」

 それを聞いて、奈理は編集長の抜かりない手配に改めて感心する。どんなコネクションが検事局にあるのか知らないが。
「引き継ぎもできなくてほんとにすみません」
 溜息をつく先輩に、彼女は立ったまま頭を下げた。


 そのあと奈理はこれで最後になる朝の届け物を終わらせたが、1202号室の分は作業台に残っていた。彼女が初めてここに来た日と同じように。
 御剣は公判のためすでに裁判所に出たあとで、スケジュール表では戻りは未定となっていた。奈理は編集長から指示されていることで、今日はどうしても早めに帰宅しなければならない。もう一度彼の顔を見たい、さよならを言いたいと思って来たけれど、もう会えないかもしれない。
 その現実に彼女はひどく落胆した。


 午後になると、開け放ったドアの外を人影が通る度にハッとして目を向けるが、御剣が帰ってくる気配はなかった。
 もうそろそろ出なければならない時間、なかば諦めた奈理がひとりで給湯室の後片付けをしていると内線が鳴った。あわてて電話に出る。
「はい。12階事務室、次野です」

「御剣だが」

 それは、一番聞きたい人の声だった。奈理の胸に喜びが湧きあがる。給湯室にいたから彼が戻って来たのに気付かなかったんだ。
 御剣は疲れているのか低い声で続けた。
「少し話がある。私の執務室に来たまえ」

「ちょうどよかった。わたしも話したいことがあるんです」

 もう会えないと思っていた人。思わず声が弾んでしまう。奈理のその言葉に、電話は無言で切れた。

(‥‥‥忙しいのかな)

 その変わらないそっけなさが寂しかったが、顔を見れるだけで嬉しい。最後の挨拶をするだけだとしても‥‥‥。
 奈理は複雑な感情に早くも涙ぐみそうになりながら、急ぎ足で1202号室に向かった。


 ノックして入ると、御剣が執務机の手前に、それに腰を預けるようにして立っていた。腕組みをして、正面から奈理を見据える。
 その立ち姿の威圧感に、彼女は入るなり久々に緊張した。御剣の眉間の皺は深く刻まれ、片手の人差し指が苛立たしげに二の腕を叩いている。いつになくピリピリした雰囲気だ。大事な裁判で負けでもしたのだろうか。そんなときはものすごく機嫌が悪いらしいし。

「キミの話から聞こう」硬い表情で御剣は言った。

「あ、はい。あの‥‥‥わたし今日で退職なんです」
 奈理はたどたどしく口にした。その言葉に、少しは驚いたり残念がってくれるかと期待したが、御剣は表情を変えなかった。

「なるほど」彼は冷たく言い放つ。「記事になる前に姿を消そうと、そういうことか」

「‥‥‥?」いきなりの言葉に奈理は一瞬その意味が理解できない。

「原稿に控えがあれば、被害届を出す必要もないわけだ」御剣は淡々とした口調で続けた。

「エッ!?」

「これに見覚えがあるだろう」



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