剣と虹とペン
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冷たい風が吹き抜ける外廊下に出ると、白っぽいペンキで塗られた玄関扉が一列に並んでいた。彼は、メモにあった部屋番号の前まで急ぐと、何かを考える前にチャイムを押した。しかし鳴る様子がない。ブレーカーが落とされているのか、何度押しても音はせず、扉を叩いてもすでに人の気配はなかった。
「ああ、彼女なら小一時間前に出ていったよ」
1階の管理室の男は、小さな窓から顔を出して言った。
「スーツケースみたいなのひとつ持ってさ。ここは、家具はほとんど備え付けだからね。若い記者さんたちは転勤も多いし、みんな大した荷物も持たず身軽なもんだよ」
聞かれもしないのに、管理人はペラペラと話す。
「引っ越し先は聞いていないだろうか」御剣は名刺を差し出しながら訊いた。
「聞いてみたけど、決まってないってさ」
管理人は名刺を確かめ、御剣の頭の上からつま先まで珍しそうに眺める。「刑事さん、なにか事件なのかい?」
「これからどこかに行くとかどこかに泊まるとか、そんな話はしていなかったか!?」
この男は彼女を最後に見た証人だ。何か手がかりを引き出せないかと、御剣は法廷に立った時さながらに詰め寄った。
「いやあ、何も。ダンボール箱をいくつか送ってたけど、倉庫に預けるとか言ってたしなあ。急も急だったからねえ。あの新聞社じゃ、ここんとこ彼女で2人目だよ。ひどい話じゃないか。ねえ刑事さん」
「ひどい話だと思うなら、もっと詳しく聞き出しておきたまえッ! 女性がたった一人で行くあてもなく放り出されたのだぞ! それから私は刑事さんではなく検事さんだ!!」
御剣は思わず声を上げて怒鳴りつけていた。そしてすぐその理不尽さを自ら悟り、青ざめる管理人に詫びた。
御剣は、重い足取りで社宅の暗い駐車場に戻ると、コートを着たまま運転席に乗り込んだ。ハンドルに置いた両手に顔をうずめ、何かを吐き出すように荒く息をつく。
彼は、ふとコートのポケットの違和感に気づいた。そこに入れていたものを思い出し、手を入れてゆっくり取り出す。
車内灯を点けると、木枠のフレームと少しだけ色褪せた写真が手の中に浮かび上がった。
日当たりのいい公園のようなところで、7つ8つぐらいの女の子が両親らしきふたりの間に立っている。優しげな男女、その間で嬉しそうに微笑んでいる女の子。時々、彼に見せたのと同じ、あの笑顔だった。
御剣は、その幼い笑顔に問いかける。
(仕事も家も失ってまで、なぜ私を守った‥‥‥)
彼は、写真を持った手の親指で女の子の顔をそっとなぞった。
彼女の名前は‥‥‥。
―――忘れないで下さいね。
笑ってそう言った彼女の声が、瞳が、突然、御剣の脳裏に鮮明に蘇る。
次野‥‥‥奈理。
彼は、心の中で繰り返す。
次野奈理。
奈理‥‥‥。ろくに名前すら覚えようとしなかった私を、キミはなぜ守った。
御剣は長いことその写真を見つめていた。そうすれば何かがわかるとでもいうように。
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