剣と虹とペン

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 御剣はその翌週、目の下に深い疲労をにじませて出勤した。
 それでもいつもの通り、地下駐車場から執務室のある12階まで階段を上る。20歳で初登局して以来、常に自分の足でこれを上り下りしてきた。
 この習慣が意図以外の効果を生んでいたことに気づいたのは、今年アメリカから帰国し現場に復帰してからだ。捜査中に息切れをするなど、かつての彼には考えられなかった。復帰までの2年のブランクを取り戻すように、彼はどんなに疲れている日でも階段を上る。
 

 週末、彼は法の許す範囲で情報を集め、奈理が身を寄せそうな場所、連絡を取りそうな人々にしらみつぶしにあたっていた。ひたすらに電話をかけメールをし、ときに車を飛ばしてそこに出向く。その繰り返し。

 御剣が地方検事だと名乗ると、みな怪訝そうにしながらも知る限りを教えてくれたが、どのホテルにも彼女は泊まっておらず、友人たちは彼がすっかり覚えてしまうほど同じ電話番号を言った。その番号はもはや彼女に連絡がつくものではなかったが、それすら誰も知らなかった。仕事で使っていたというメールアドレスからも返事はない。

 彼女を見つけ出して、預かった写真を渡す以外に何がしたいのか、彼は自分でもよくわかっていなかった。ただそうしなくてはならないという強い焦燥にかられていた。
 

 日曜の夜になって彼はやっと奈理の母親を知る人物にたどり着いたが、新しい家庭を持っているという情報だけで消息まではわからなかった。丸2日かけてこれかと、最後は奈理に対して憤りのようなものが沸いてくる始末だった。
 


 よけいな神経を使ったせいで、週明けに早朝から目が冴えてしまった彼は、検事局にも普段より早く到着していた。いつになく息を切らして12階の廊下に出ると、開け放たれた事務室のドアから朝の光が差していた。照度の低い廊下で、そこだけ紫の絨毯が明るく照らされている。

 それは彼には見慣れた風景だ。いつもなら足早に通り過ぎる場所。しかし今朝、彼は立ち止った。朝日がまばゆい事務室内にはまだ誰もいない。

 奈理が使っていた事務机の上はすっかり片付けられていて、彼女がもう戻らないことを物語っていた。そのことが、彼の胸の奥に小さな痛みをもたらす。ペンの1本もメモの1枚も、彼女がそこにいたというなんの痕跡もなかった。
 
 何ひとつ残さずに消えてしまった。
 何ひとつ‥‥‥。

「む‥‥‥‥!」

 彼は廊下を急ぎ足で歩き始め、最後には走り出した。1202号室のドアの前まで行くと、あたりを見回す。中かがみになって隅から隅まで。ついに彼は廊下の床に膝をついて、壁際に配置されている革張りベンチの下を覗き込んだ。

 奥の方に輝きが見える。遠海に浮かぶ船の光のように微かに。彼は床に這いつくばってその小さなものに手を伸ばした。もう少し‥‥‥彼はベンチの下に頭も入れた。

「御剣検事殿!!!」

 ガツン!! 鈍い音とともにベンチが一瞬振動する。

「‥‥‥ぐッ」御剣はその下で低く呻いた。

「地震だったッスか? 自分はマッタク気づかなかったッス」
 御剣は後頭部を押さえながら、ベンチの下から這い出した。ヨレたコートの男がきょとんとした顔で見下ろしている。

「いきなり大声を出すな!! バカものッ!!」

 彼は糸鋸を怒鳴りつけながら立ち上がると、掌に掴んだものを大切な証拠品のように白いハンカチにくるんだ。そっと胸の内ポケットに滑り込ませる。

「なんッスか、そのキラキラした‥‥‥」
 その言葉をさえぎって御剣は言った。
「こんな朝早くから何の用だ」
「はっ! また、夕闇町で殺しッス」糸鋸は直立して敬礼した。「検事殿にも現場を見てもらいたくてパトカーを下につけてるッス」
「うム」

 夕闇町は、夕焼け駅の北西に広がる大規模な歓楽街だ。風営法対象の施設が密集した地域だが、隣国である西鳳民国の組織との縄張り争いでここ最近事件が頻発している。殺人も今年だけでもう5件になる。
 糸鋸の運転するパトカーの助手席に御剣は乗り込んだ。糸鋸から一通り概要を聞いたあとは、フロントガラスを睨んで今回の事件についての思考に集中した。



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