剣と虹とペン

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 珍しいことではないが、その日、奈理は御剣が帰宅する前にベッドに入った。夜中の1時を過ぎているが、もちろん御剣からは電話もない。自分には厳しく門限を課すくせに勝手だなという思いも、「心配だから」と言われてからはすっかりなくなった。
 あの夜のことを思い出すと、奈理は照れ臭いような、心がほのかに温かくなるような気持ちになる。彼の前で泣いてしまったのは今もちょっと恥ずかしいが。

 へへ、と暗闇の中で薄笑いを浮かべ布団を深く掛けようとしたとき、玄関ドアの音がした。御剣が帰って来たようだ。
 廊下を歩く音がなかなかしないと思ったら、どすんと大きな何かが壁にあたるような振動が響く。

(‥‥‥?)

 耳をすます奈理は自分の名前を呼ばれたような気がして、あわててベッドを抜け出した。
 寝室のドアを開けて顔を出してみると、廊下の中ほどに御剣が赤いスーツ姿でぐったりと座り込んでいた。背中を壁にあずけて片膝を立て、手は両脇にだらんと垂らしている。その手にあっただろうアタッシュケースは玄関先に投げ出されていた。ヒラヒラにあごをつけるようにしてうなだれ、顔は前髪に隠されほとんど見えない。

「だだだ大丈夫ですか!?」

 彼女はびっくりして駆け寄り、その傍らに膝をついて声をかけた。「御剣検事!?」
 ‥‥‥お酒くさい。
 こんなことは彼女がここに来てから初めてだ。
 顔にかかる前髪の隙間から覗き込めば、眉間に皺を寄せて何かブツブツ言っている。

「え?」
 奈理は耳を寄せた。
「ロウがキミに挨拶すると言うから断った」御剣は意外にはっきりした声でそう言った。
「ロウ‥‥さん?」
「なぜ、あんな男をキミに会わせる必要がある? そうだろう?」
 彼はその姿勢のまま、目だけ奈理に向けギロリと睨みつける。

「は、はい」
 いつもは澄んで青くさえ見える白目が、赤く充血している。酔ってる。それも相当。誰だ、ロウって。

 彼女が戸惑っていると、御剣は頭を上げて今度はニッと笑った。
「奈理くん」
 場違いに上機嫌な声で呼びかけると、彼は赤い上着の内ポケットにのろのろと手を入れた。そこから小さい包みを取り出し、彼女に差し出す。「ほら、お土産だ」

「えっ! お土産?」
 彼女はぱっと笑顔を浮かべ、礼を言うとそれを受け取った。「なんだろう? 開けてみていいですか」

 紐のかかった小さな紙の箱だった。奈理がそれを開けようとしていると、御剣は緩慢な動きで両手をそろそろと彼女へ伸ばしてきた。かと思うと、その手でいきなり彼女の両頬をがしっとはさみ、自分のほうへ顔を向けさせる。

「わっ!」

 奈理は驚いて大声を漏らした。思わず取り落とした箱が床を転がって行く。とっさに体を引こうとするが、御剣は大きな手でしっかりと彼女の頭の両側をはさんで離さない。かといって何をするわけでもなく、じっと彼女を見ている。

「ど、どうしたんですか!?」
 奈理は焦ってその手首をつかんで引き離そうとするが、結構な力でびくともしない。

「キミは、ほんとうにかわいいな」

「は???」

「かわいい」
 下まぶたを持ち上げるようにして、彼女を見つめたまま御剣はそう言った。微笑む彼の瞳はいつになく潤んで、やっぱりお酒臭い。いつもいい匂いするのに。

「ちょ‥‥‥。ず、ずいぶん酔ってますね」
 タチの悪い酔っ払いだ。だいたい今、大きな手で頬がつぶされて、唇はたぶんヒヨコみたいに飛び出して何一つかわいくないはずだし。
 奈理が御剣の手の温かい感触に、ドキドキしながら見返していると、彼はすうっと目を閉じ、手を離してまたうなだれる。



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