囚人検事と見習い操縦士


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●一

 翼を一振りすると、風に包まれ上空へと押し上げられる。飛び立つときの、この感覚が大好きだ。真青な空の中を泳ぐように飛び回る。土と草の匂いが、翼を撫でていく。
 ――――?
 突然、草原の光が失せる。見上げるといつのまにか太陽はかき消え、天頂にかかっているのは巨大な白い月。闇からバサリバサリと恐ろしい音が響き、黒い羽根が舞い散る。
 羽音がどんどん近づいてくる。耳のすぐそばまで。これは‥‥‥‥!? 

「ギャアアァァーーッ!!」

 自分の叫び声で、初場粋子は目が覚めた。起き上がってあたりを見回すと、いつもと変わらない自分の部屋。ジェット機のターボファンエンジンの音がそう遠くない場所からいくつも重なって聞こえてくる。

 彼女は大きく息を吐いて、枕元の時計を見た。セットした時刻よりまだだいぶ早い。空を飛ぶ夢は珍しくないが、こんなふうに自分の叫び声で目覚めたのは初めてだ。今日は大事な遠距離飛行の日なのによく眠れなかった。夏は終わったというのにまだ蒸し暑い室内で、彼女はもう一度ふうとため息をつく。

 粋子は操縦士の見習いとして小さい航空会社、《大河原航空》の事務所に住み込みで働いている。一人前になるまでは住み込みで。それが師匠、つまりこの会社の社長の方針だ。
 羽咲空港のはずれにある事務所の上空は、夜明けとともにジェット機の轟音が飛び交う。それでこんな夢を見たのかもしれない。音には慣れたと思ってたのに‥‥。


 支度を終え階下の事務室に降りてみると、社長の大河原さんがもう隅のデスクでパソコンに向かっていた。白髪交じりの頭を団子に結って、すでに古めかしい飛行服に着替えている。老人と言えるぐらいの歳でしかも女性だが、飛行時間は1万を越えるベテランだ。

 とは言っても、会社には旧型のセスナが1機あるだけ。応接室を兼ねたこの部屋も、事務デスクが2つと、年季の入った革の応接ソファでもういっぱいになっている。社員は、社長を除けば粋子ひとりだけだ。
 大河原さんのいとこのコネで、こんな小さい会社でも羽咲空港に事務所を構えることができたと聞いた。その人は政府関係の宇宙センターに長年かかわってきた偉い人らしい。

 粋子は朝の挨拶をして、応接ソファに腰を下ろした。
「早いじゃないか。よく寝れたかい?」社長もソファに歩いてきた。
「うーん。あんまり。なんか緊張しちゃって」
「はっはっは」老齢の女社長は豪快に笑う。「今回ばかりは仕方ないね。うち始まって以来の大仕事だからね。囚人の護送なんて」
 粋子は神妙にこくりとうなずいた。
「もういっかい航空図を確かめておくか」
「はい」

 粋子の向かいに座った社長は、テーブルに広い紙を広げた。山を4つばかり越え、海のように大きな湖を横切ったところにある都市が目的地だ。
「気流の悪いところが何か所かあるから、それは避けて行こう」
「了解です」

 護送する囚人は、検事としてその街で裁判に出ると聞いた。てっきり裁かれるのだと思っていたが、そういうことでもないらしい。検事っていうのが何なのか、どんなことをするのかも、粋子は今一つわからないままだ。

「なんでうちみたいなとこに依頼してきたんですかね」
「護送用のヘリが全部出払ってるんだとさ。その囚人の場合、民間の交通機関を利用するのは時々あることらしい。今回はたまたまうちだったってだけさ」

「ずいぶん急な話でしたよね」
 この話が来たのは昨日だ。心にも準備にも余裕がなくて、だからよけいにいろいろ気になってしまう。
「お役所仕事はこんなもんさ」社長はあっさりと言った。

「それにしても囚人って‥‥‥どんな事しでかしたんだろ」
 知りたいような知りたくないような気持ちで粋子はつぶやく。
「6年前、女を殺したらしい」
「え」
「日本刀で切りつけたそうだ」
「日本刀‥‥?」
「興味あるなら、ちょうどそこのパソコンで昔の記事を見てたとこだ。そんな顔してるんじゃ、あんまり勧めないがね」
 言われる通り怯えつつも、好奇心に負けて粋子はデスクに近づいた。



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