囚人検事と見習い操縦士


1ページ/3ページ


●五

 粋子は《ゴホンのおまわり》のTシャツを着て、階下に降りた。2階にあった浴室は設備も整っていて、思いの他さっぱりとしてしまった。あの囚人のおかげでこんな廃墟の中で生活らしいことができているのは事実だ。冷静に考えればあの人はこちらに害になることは、何一つしていない。というかむしろ助けてくれて‥‥いる。

(今のところはだけど‥‥)

 彼女はぼんやりと考えながら、階段を下りたところにある受付カウンターの前で立ち止まった。近くの壁には、美術館のフロアマップが貼り出してある。今いるほうが別館、渡り廊下の先、暗がりになっているほうが本館だ。本館には展示室が並んでいる。たぶんもう絵は一つもない、からっぽの展示室が。

 受付近くには小さなミュージアムショップもあった。ワゴンには絵画のデザインされた雑貨が、見捨てられたように埃をかぶって並んでいる。タオルやTシャツもあった。あの人は、これを洗ってくれたのだ。刑務所暮らしのせいなのかよくわからないが、おかしなほどマメな人だ。そういえばちゃんとお礼はしただろうか。粋子は、夕神との会話はなぜかあまり思い出せないのだった。

 マップによると受付に一番近いドアは館長室だ。
 粋子はそのドアを開けてみる。布張りの応接セットがある広い部屋だった。天井まである洋窓から日が差し込み、熱気がこもっていた。中をぐるりと歩いてみて、彼女の目は棚の隅で銀色に光るものに吸い寄せられた。

(ラジオだ!)

 山の中でも電波を捉えられるように、太いアンテナのついた高感度ラジオ。粋子は胸を高鳴らせながらコードをコンセントに差し込み、電源を入れてみた。
 反応しない。
 この部屋には電気が来ていないのかもしれない。急いでラジオをキッチンに運んで、埃を拭いそこでも試してみる。やはり、うんともすんとも言わない。彼女は今度は工具を探した。流し台の棚をあちこち探して、家庭用の小さい工具セットを見つける。テーブルの上でラジオをひっくり返すと、迷うことなく背面のネジを回した。整備士になる前から機械いじりは好きだった。ラジオ程度ならなんとかなりそうだ。


「おめえさん、何やってンだ?」

 開けっ放しだったキッチンのドア口から声を掛けられた。集中してるせいで、いきなり背後に立たれても気にならない。粋子は細かい迷路のような基盤を覗き込んだまま答えた。
「ラジオを見つけたんです」
「壊れちまってただろ?」
「直せるかもしれないから」
「ほう‥‥」
 夕神は粋子の肩ごしに、ドライバーをくるくる回す彼女の手元を覗き込んだ。「器用なもンだねェ」

 その時、その距離の近さに、彼女は初めてハッとして、すぐそばにある男の横顔を見た。
 漆黒の髪に白い肌、まっすぐ通った鼻筋、薄く笑みを浮かべた口元、今日も変わらず清潔感のある襟がピンと立ったシャツ。世間で言ったら、かっこいい部類の人だ。いや間違いなく、かっこいい。相当。今まで恐い気持ちが先で、全然気づかなかった。

「ヘッ。楽しみにしてるぜ」

 そう言われて、粋子は思わず見つめてしまっていた目を逸らす。夕神は、食料品が詰まっているとおぼしき扉付きの棚から、“今日の配給分”を彼女に渡すとまた出て行った。


 ◎ ◎ ◎


 その日の夕暮れ時、前夜と同じように彼らはテーブルで向かい合っていた。
 ただ一つ違うのは、ラジオから呑気に音楽が流れていることだ。いつ放送されるかわからないニュースのために、ラジオはつけっぱなしにすることにした。とりあえず夕神も異論はないようだった。これまでニュース番組は何度かあったが、墜落事故に関する放送はまだない。

「今夜も私はここで大丈夫です」

 粋子はきっぱりと言った。日が傾いてくると、否応なく「寝首をかく」と言われたことが思い出される。そうじゃなくても、こんな状況でおちおち横になって眠る気にはとてもなれない。

「おとなしく2階で寝な。おめえさん、死にかけのキジバトみてェに目が真っ赤だぜ」
「本当に、大丈夫です」
「殺人鬼と一つ屋根じゃァ、おちおち横にもなれねェってか?」
「い、いえそんなことは!」



次へ
前の章へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ